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さよなら飲むヨーグルト

 おれが日々通勤に使う京浜東北線からは、多摩川の川べりと、川べりに立ち並ぶダンボールハウスの一群が見える。ホームレスたちの建設したダンボールハウス群の中には、テラスにデッキチェアを据え付けたものまであり、朝日に輝く多摩川の光を受けるその姿はほとんど優雅にさえみえるほどだ。そんな美しい光景を眺めるおれは不快指数100%の車中におり、いつのまにこんなテンプレートな悪夢に巻き込まれてしまったのだろう、なんてことを考えている。
 そんなおれも十年くらい前には自分の才能をほとんど確信していたものだ。といっても、それが何の才能なのかはわかっていなかった。当然だ。何もしていなかったのだから。でも、何かができるはずだと盲目的に信じていた。もちろん、自分以外にそれを信じるものはいなかったけれど、さびしいとは感じていなかった。むしろ、まわりのバカどもにはわからないくらいでちょうどいいとさえ考えていたふしがある。まあ、思春期の少年少女なんてたいていがそんなことを考えて暮らしているものだと思う。きっとおれはいつか特別な存在になる、そうなれないなら野垂れ死にしたっていい。そんなことを真顔で考えていて、それを恥ずかしいとも思っていなかった。前述したように、そのころおれはまわりの人間なんてほとんど馬鹿ばっかだと思い込んでいたので、そんな中に、自分よりはるかにレベルの高い才能を見つけたときは、水平線がぐるりと回転するほどの衝撃を受けたものである。
 その才能を仮にA君と呼ぶことにする。彼はいわゆるクラスの人気者タイプで、いつもくだらない冗談をいっては周りを笑わせていた。ただ、彼の一言でクラス中が笑っているようなときでも、彼だけはひどく冷たい眼をしていた。ひょっとすると、ここにいる誰よりも、もちろんおれよりも、鬱屈としたものを抱えているかもしれない、などと感じていた。まあ、今思えば、ただ単にそういう顔だちをしていただけのことなのだろう。
 気だるい授業中に、A君が言い放った言葉を今でもはっきりと覚えている。
「もう今日はこんなのやめて、みんなで双子座ごっこしようぜ!」
今こうやって文章にすると、どこがどう面白いのかさっぱりわからないが、その瞬間にはすごくウケていたし、驚くべきことに、おれにとってもそれはすごく面白かったのだ。嫉妬さえしたような気がする。それまでクラスの人気者をうらやましいと思ったことはほとんどなくて、それは「こいつら所詮はローカルヒーローに過ぎないよな、未来のヒーローであるおれには全然関係のない存在だな」なんて調子のよいことを考えていたからなんだけど、その瞬間、A君はローカルヒーローの枠を軽々と超えてしまったのだ。それはおれが現実界ではじめて出会った才能だった、と言っていいと思う。
 あのころ、おれは本の好きな子供だったし、テレビやラジオを普通の子供よりずっと真剣に視聴する子供でもあった。そうした、「ここ」とは違う「向こう側」の世界に触れることで、「ここ」から脱出するための才能を磨くことができるなんて、さすがにそんなことを真顔で信じるほどには子供ではなかったけれど、ほんとうのところはやっぱり、信じていたのだと思う。だからこそ、まさか同じ教室に、「ここ」に、「向こう側」と同じレベルの才能をもった人間がいるとは信じられなかったのである。クラスの人気者はおれにとっては所詮ニセモノのヒーローでしかなくて、おれはもしかするとヒーローにはなれないかもしれなくて……。そんな中で、A君だけが現在進行形のヒーローだったのである。自分と同じ町に暮らす、自分と同い年の少年が、すでにそれだけの才能を発現させているのを見れば、どうしたって焦らずにはいられない。だからおれは絶対にA君とは仲良くできないと思っていた*1し、事実仲良くはならなかったけれども、彼が当時の自分に大きな影響を与えた人物であったことは間違いない。
 その後の彼の消息をおれは人伝えでしか知らない。自分の才能だけで勝負して生きていくような、そんな道を志したという噂は聞いた。あのころの自分がそんなことを聞いたら、焦ってしまってしかたがなかっただろうし、もしもA君が成功したときには、きっと嫉妬しまくっただろうと思う。24歳になったおれは、もう焦りもしないし、たぶん嫉妬もしない。しないというよりも、できない。成長したのではない。大人になったのではない。ただおれはもう、そんなことを感じる気概を失ってしまっているだけなのだ。
 しかし、おれが彼に感じていた才能は、果たして本物だったのだろうか。ただの勘違いだったような気もするし、彼の才能は、思春期の一瞬だけに輝く才能だったのかもしれないな、とも思う。あるいは、彼の才能は掛け値無しに本物で、今もおれのしれないところでその才能をぎらぎらと輝かせているのかもしれない。どちらであってほしいのか、おれにはよくわからない。どうでもいいことのようにも思う。

*1:子供だったからね。今ではすごい人と遊べるのはすげー貴重なことだと思う