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処女・おれの・失敗

僕は、失敗しつづけている。何を?具体的に言えば、具体的に説明する気も失せるほど些細な生活上の小事において、僕は失敗しつづけている。しかし、僕はそんなことでいちいち思い悩んだりはしない。僕は芸術家だからだ。芸術家は生活などというくだらないものと関わるために生まれた人種ではないのだ。しかし、僕の失敗が致命的なのは、僕は芸術においても実生活と同様に失敗し続けているということだ。というよりも、僕は芸術家なのに、何ら芸術活動を行っていないのだ。芸術がしたい。芸術が。おれはそれが芸術なら何だっていいという気持ちだった。けれど……。
 例えば絵画。僕は色塗りの下手な子供だった。僕がクレヨンで人の顔を書こうとすると、鼻や頬の輪郭線を書くために使った黒のクレヨンと、肌の色を塗るために使った肌色の絵の具がぐちゃぐちゃに混ざってしまう。僕のお母さんの顔はぐちゃぐちゃのゾンビのようになってしまった。哀しかった。僕はそれから、絵というものを一切書いたことがない。最近になってステッドラーの水彩色鉛筆を買ってはみたものの、いちいち水に溶かすのがめんどうくさく、結局二回くらいしか使っていない。
 例えば音楽。僕はロッカーになるには色気がない男だったし、そもそも楽器が何もできなかった。ヒップホッパーになるには男気がなかったし、レコードを買い集めるお金もなかった。今僕は、カホンという楽器に興味がある。何だか簡単そうに見えるからだ。カホンにピックアップを装着し、エレキトリック・カホニストになり、代々木公園辺りで練習したい。そんなことを言いながら、僕はカホンからどんな音が出るのかさえ知らない。僕にはギターを買って、ひとつのコードも覚えないまま友人に譲ってしまったという前科があるので、もう楽器を買うことは許されない。
 だから、僕にはもう小説しかない。小説は、不器用で運動神経の無い僕にでもできそうな最後の芸術領域なのだ。しかし、敬愛するid:hey11popさんや、id:nuff-kieさんによれば、小説とはつまるところリズムであり、そのリズムは(すぐれた芸術がみなそうであるように)身体から発せられるものだという(参考:http://d.hatena.ne.jp/hey11pop/20070817/1187351825 :http://d.hatena.ne.jp/nuff-kie/20070815/1187185263)。僕はこうした見解が正しいのか、そうでないのか、はっきりいってよくわからない。小説は最終的には身体を乗り越えたところで成立できるのではないか、という気がしているのだけど、そんな気がしているだけで具体的な根拠は見つけることはできなかった。実際、僕がこころところ強く惹かれる作家は、だいたい強い身体性を備えた作家である。文章がそのまま殴りかかってくるような、そんな文章にこそ憧れる。
 しかし、このことを認めてしまえば、僕は小説をも書けなくなってしまう(事実、書けていない)。希望があるとすれば、こうだ。
 仮に小説が身体性から発せられるものであるとしても、それは必ずしも心地良いリズムを志向する必要はなくて、例えばメタボリックな身体から発される停滞しがちな文章や、ガリガリな身体から放たれるビートのかぼそい文章も、その停滞や貧弱を存分に表現することができるならば、それは表現たりうるはずじゃないか?*1
 音楽は、肉体的な快楽に強く結びついた芸術だから、そうした表現は観客にかなりの負担を強いるものになるだろうけど(実験!)、小説ならば、狂ったリズムが読者の身体にもたらす「心地悪さ」を表現の一部分として活用していけるのではないか?
 などとしたり顔で何かを語ったような気分になっているid:yoghurtだけど、実際のところ、僕の書く小説がいまいち面白いものになっていないのもまた確かなことである。書いた小説が面白くないので、途中で自分の小説に飽きてしまい、最後まで完成させられなくなってしまう。由々しきことである。明らかに、このままではだめだ。このままでは僕はだめになる。僕がやるべきことは、自らの小説のつまらなさから逃げることではなくて、どこがどうつまらないのかを詳らかにし、どうすれば面白くなるのかを理解することだ。それを達成するため、ここからは僕の処女失敗小説「さよなら鰐ゲイター」を題材にとり、実践的に失敗を分析していこうと思う。処女で失敗、という単語の並びにはどこか真夏の海岸物語的なスメルが漂う。そんなありがちな一夜の失敗に、分析という光をあてることは果たして許されることなのか?しかし僕はもう躊躇ったりしない。ヌルっていく。

<さよなら鰐ゲイター>

そんな彼の机の中は小さな骨董品で溢れていた。サメの歯や三葉虫の化石、サターンロケットの模型、世界地図。彼は小さな博物学者のようだった。章吾はそんな風に、たどたどしくも世界を愛していたのだ。それでも、この世界に彼の居場所はなかった。
(さよなら鰐ゲイター)

 作中から抜き出した、このわずかな文字列にさえ、致命的な過ちがいくつも潜んでいる。そもそも、おれはなぜ、過去形で文章を書いてしまったのだろう。最大の間違いである。文章を書くという行為には、人間に感傷を呼び起こす魔力のようなものがある。気を張っていなければ、小説はたやすく感傷的なものになってしまう。文章そのものがそういった性質をもっているのに、過去形などという「終わってしまったこと」を語りおろしていくようなスタイルは、よりいっそう強く感傷を呼び寄せ、人間をたやすくセンチメンタル少年化してしまう。恐ろしいことだ。しかし、何よりも恐ろしいのは、過去形は使えない、じゃあどういう時制で小説を書いていけばいいのか? となったときに、代案がさっぱり思いつかないことだ。
 「過去形が使えなければ、現在形を使えばいいじゃない!」可愛い女の子なら、そんな風に正論で僕を諭してくれるかもしれない。しかし、僕はどうも現在形という時制を信じる気になれないのだ。あれは何となく擬制というか、嘘んこのような気がしてならない。現在形といいつつ、その時空間カバー範囲は極めて広く、しかもそれは未来方向に大きく開けている。例えば、「よしおは殴る」と言う文。僕はこの文もう予言じゃん、なんでそんなことできんだよもー。という気分になってしまう。もちろん小説の中で現在形を使う場合、「わるおが蹴りを放つ。よしおは半身になってそれをかわす。よしおは殴る。思い切り殴りつける。」という風に書けば、ある程度のライブ感は演出できるのかもしれない。しかし、結局はそれも現在を擬制しているだけに過ぎない。

でもまあ、暗闇に醜く小さく歪められてしまったとはいえ、やはり鰐が特別な生物ではあることには変わりない。もっとも古い時代、俺らが猿どころか鼠でさえ無かった頃から生き延びてきた種族の末裔だ。そう、あの恐竜の末裔だ! 古生代の覇王、陸海空全てを支配した最強の爬虫類! その最後の生き残りが鰐なのだから、俺たちは彼らに敬意を払う必要がある。俺? 俺はもちろん鰐を尊敬しているよ。鰐を崇め奉っているよ。
(さよなら鰐ゲイター)

当時の僕は、それでも文章にライブ感を投入したかったらしい。しかし、その解決法はあまりにも安易なものだった。「煽り口調の口語体」を使用すれば、文章に動的な感じが生まれてくるのではないか。結果、ライブ感もリズム感もあとからついてくるのではないか。そんな風に考えていたのだった。結果は見ての通りのもので、「!」の多様が痛すぎて見ていられない。書き出しからセンチメンタリズムに支配されてしまった文章から逃れようとした結果がこれである。こんな話し方をする人はどこにもいない、という文章になってしまっている。

これらの失敗は全て、文章にNOW的なもの、あるいはACTION的なものを持ち込もうとした結果のことだ。ならば、解決策はもう、文章にそうしたものを持ち込まない、ということしかない。なるべく、声を響かせないように小声で語る文章だ。……そうタイプしたわけだが、画面上に表示された自分の負け犬振りにすでに嫌気がさしてしまう。おれは何を言っているんだ? id:yoghurtはいつだって真っ向勝負で押し通るんだぜ? 真っ向勝負とは何か? 決まっている! 現在を表現するための、NEW文体をググって発見することだ!真・現在形を巡るid:yoghurtの冒険はまだ始まったばかりだ。<さよなら鰐ゲイター・第一部完>

*1: しかしこれはいかにも90年代的な、悪しき価値相対主義なのではないかと思う。