ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 

 この日記を読めば分かるように、おれは基本的に感傷的な人間で、過去の思い出に耽溺してノスタルセンチな気分になるのが大好きな「思い出中毒者」なんだけれども、実際のところ、今までの人生に、中毒するほど美しい思い出があるか、といえば、そんなものがあるわけもない。じゃあ、全然無いのかよ、と言われれば、それはそれでまた違うのだ。さすがのおれでも、在りもしない思い出に浸ることは難しい。大体は実際の思い出を再編集して愉しむことが多い。思い出を切ったり貼ったりする。ささやかな美化を行う。意味を置き換える。
 そんなことを続けていくと、編集前の記憶は段々と曖昧になってゆく。「現実と虚構の区別がつかない」なんて、いかにも三文小説に出てきそうな文章だけど、しかしそれは実際に起こってしまうことなのだ。もちろん、記憶として残っているからには、実際にそのようなエピソードがあったことは事実なのだろう。事実関係を改竄するような編集を行うことはそれほど多くない。わからなくなるのは、そのエピソードについて、自分がどう感じていたのか、ということだ。当時がつまらないと感じていたものが、再編集によって輝かしいものに変わる。その逆もあるだろう。どちらにせよ、わからない。あの夜も、あの夜明けも、自分がどう感じていたかはわからない。感覚は思い出すたびに変化するものなのだ。

さて、一応この文章は日記なので、ここからは今日のことを書く。歌舞伎町に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」 を見に行った。
オリジナルを観たのは、シンジ君と同じ14歳のときだ。僕は、シンジ君と酒鬼薔薇聖斗と同じ世代なのだ。僕もずいぶん歳をとった。この歳で、わざわざ並んでまで見た自分に呆れた。絶対に、つまらないだろうけど、つまらなくてもいいや、と思っていた。オリジナルを観た当時は。切実な気持ちで見ていたような気がするのだが、よく思い出せない。

 映画が終わった瞬間、劇場は万雷の拍手に包まれた。喝采をあげるものもいる。ほとんどライブ会場のような光景だった。異様なテンションに、一緒に観に行った友達はかなり引いていた。おれにとっても、映画館であのような光景をみたのは初めてのことで、少し戸惑ってしまった。
 近くの喫茶店に行きながら友達と感想をくっちゃべる。いま見ると大人がひどいね、シンジ君は案外まとも。第3新東京市ってあんなにカッコよかったっけ? 使徒もカッコよすぎる!
 とにかく今回は色んなものがカッコよくなっているのだ。とりわけメカ・モンスター・背景のカッコよさはちょっとすごい。兵装ビル。殺人現場のような街。特に使徒ラミエルのカッコよさはちょっとどうかしてる。初めに変形したときは、何だよラミエルは正八面体だからいんじゃねーかよ、なんて思っていたのだけど、砲撃に即対応して自在に変形するラミエルに圧倒される。停電の街の上空、花火のように尾を引いて飛ぶミサイルを、レーダー波のような360°荷粒子砲照射で全弾打ち落としたところなど、おれの中の男子が親指をぐっと立てたほどのカッコよさだった。
 反面、エヴァが当時のおれを魅了したような「カッコ悪さ」「無様さ」はだいぶスポイルされてしまったような気がする。ナイフで特攻するシンジ君の絶叫や、捧げられた兎のような綾波レイの容姿は、もっともっと気色悪くて、まるで成長痛のような甘さがあったものだった。今回の作品では、シンジの絶叫も何となく遠いものに聴こえる。さすがに作品の古さは否めず、シンジ君の絶叫は過去のものであって、今、どこかで誰かが発している絶叫のようには聴こえなかった。もちろん、それが悪いというわけではない。
 渚カヲルが登場するシーンや、予告編での深読み誘引テクニックは、いかにもエヴァと言った感じで、正直に言って、めちゃくちゃ楽しかった(後ろ向き)。使徒のナンバリングを変更してみたり、まだシンジ君とは会っていないはずの渚カヲルが「また3番目か、君らしいね」などと宣うにいたっては、まさか「一巡後の世界」ネタなのか?海も「#26まごころを、君に」のように赤いし…!?と妄想が止まらなくなってしまう。
 こうなってくるともう次の「破」が楽しみで仕方がない。予告を見ると、「破」は明らかにストーリーを無茶苦茶にいじっている。「序」は旧版のグレードアップ・ヴァージョンで、わりと端正な出来栄えだっただけに、それを「破」で台無しにするようなことをやってほしい。高度な技術による裏切りを、いつだって観客は心待ちにしている。