読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

父親が、自動車だった

 ずっと、自分の車を持つことに憧れていた。
それは、僕という人間が、どうしようもなく二十世紀人であるからかもしれない。
二十世紀の男にとっては、車はただの機械じゃないのだ。
二十世紀の僕、まだ幼い子供だった僕は、エンジンと、四つの車輪を持つものには何だって憧れていた。
ポルシェ、メルセデストヨタ、ホンダ、フォード……。今では何一つ覚えちゃいないのだが、当時の僕は世界中の車を暗記していたらしい。
スポーツカーが好きだったし、ファミリーカーも好きだったし、消防車だって愛していた。
当時の僕の愛読書は、もちろん『しょうぼうじどうしゃ じぷた』*1だ。
 
 しかし、何といっても一番好きだったのは、我が家の車だ。
それは、常に幸福な記憶と結びついている。
少し角ばったそのセダンに乗り込むとき、僕はいつだってわくわくしていた。
行き先がどこであろうと関係がなかった。
マクドナルドのドライブスルーだって、当時の僕には途方も無いごちそうに思えたものだった。
 
 幼少期の一番恐ろしい思い出もまた、車とともに記憶されている。
理由はよく覚えていないのだが、幼い僕は父親をひどく怒らせてしまい、『今すぐ車から降りろ』と命じられてしまったのである。
僕はこれで人並みに生意気な子供だったので、
怒鳴られた瞬間にドアを開け放ち、
陽炎の立ちのぼるアスファルトに足を踏み出していた。
二十六歳になった今から振り返ってみても、あのときほど強烈な不安を抱いたことはない。
母親によって車中に連れ戻された僕は、恥ずかしいくらい大声でわんわんと泣き出してしまった。
無理もないことだったんじゃないかな、と思う。

 とても強くて、ちょっと怖い。
あの頃の僕にとって、あのセダンは父親そのものだった。
いつかは自分も、父親のように自動車を運転するのだと、信じて疑っていなかった。
僕にとって、自動車を持つということは、行きたいときにどこにでも行けるという自由の象徴であり、
その自由が許されるだけの成熟の象徴でもあったのだ。
僕もまた、二十世紀人として、自由で成熟した大人になるはずだった。
 

 しかし、いつの間にか二十世紀は終ってしまい、二十六歳の僕は、一度も車を所有したことがないままだ。
定期的に運転することもないせいか、ただのバックでさえ満足にこなすことができず、
旅行中、レンタカーを運転するときは、常に両サイドに車がいない場所にばかり駐車していた。
二十世紀人としては、到底認められない姿である。
もちろん、それを恥じる必要はないだろう。
僕は父親とは違う場所、違う時代を生きているのだ。
僕が生きているのは、ガソリンを燃やすことが美徳であった二十世紀ではない。
二十一世紀人に必要なのは、車ではなくインターネット。
移動手段ではなく通信手段なのだ。
加えて僕は、うっかり地方から上京してきてしまったので、ますますもって車を持つ必要などない。
地方に住んでいれば、まだ車を持つ理由もあっただろうが、ここでは車を持つということは全く合理的な選択肢でない。
そのことは痛いほど分かっているのだ。


 僕はそれでも車が欲しかった。
車を持つことで、かつて夢見た大人になれるのではないかと思ったのだ。
最近、本気で車を買おうかと思って色々と調べてみたのだが、僕の稼ぎで車を持つと、維持費で死んでしまうことがわかった。
僕はもう二十世紀人にはなれないのだから、
二十一世紀人としての自由と成熟を目指さなければならないのだが、
未だにどうすればいいのかわからないでいる。
やはりインターネットか。
車の代わりはwebなのか。
webで自由と成熟を手に入れるためにはどうすればよいのだろう……。
いつも読ませて頂いているブロガーの方が、
このまま歳をとっていっても、ずっとはてな更新しつづけているかと思うと心が苦しくなる、
というようなことを書いていた。
僕は心の底から共感してしまった。
二十一世紀のテクノロジーが僕をどこにも連れていってくれないとき、
僕はふと過ぎ去ってしまった二十世紀の自動車たちのことを振り返ってしまう。
いつかはクラウン、なんて暢気な時代もあったものだ。
でも、もうさよならだ。
僕はそこには戻れない。

*1:この絵本のことは、ほんとうに好きだった。