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烈火の如く、女を語れ! 第三章 内田有紀

 天才。その輝きは、彼らが「天才的」な偉業を為し得たときよりも、むしろ、その才能が周囲の凡庸さによって損なわれてゆく瞬間にこそ放たれる。なぜならば、天才とは、結果ではなく、可能性に対してのみ使うべき言葉であるからだ。それも、そんじょそこらの可能性には使っていい言葉ではない。
天才。その称号が許されるのは、人類史に新たな記述を要求するだけの可能性を持った人間だけだ。

 内田有紀wikipediaによれば、この名は、「世紀を越えても有名な子になるように」と、祖母の願いから付けられたものだという。名は体を表すとはいうが、ここまで来るともはや予言の域に達している。しなやかな身体に、獰猛な瞳。祖母の願い通り、彼女は「百年に一人」クラスの類まれなる才能を携えて生まれてきたのだから。
 しかし、これだけの才能に対して、与えられた楽曲が、「TENCAを取ろう! -内田の野望-」というのはどういうことなのだろう? まあ、僕に楽曲の善し悪しを判断するだけの知識はないし、クレジットには筒美京平というビッグネームもあるから、これは素人の勘違いなのかも知れないけれど、やはりどうしても「やっつけ仕事」という言葉が脳裏に浮かんでしまう。だいたい、この曲がタイアップされていたドラマ、「半熟卵」からしてひどかった。今となっては、「Hは全身運動の基本!」という破廉恥なセリフを内田有紀を連呼していたことしか覚えていない。
 しかし、不思議なことに―夏の午後にシャワーを浴びているときなど、「Hは全身運動の基本!」と宣う内田有紀のことを思い出して、ごく自然に勃起してしまうことがある。ドラマの放映から、十数年の時が流れた今になってもだ。
 これはおれに限ったことではなくて、周囲の二十代男性はほぼ100%の確率で同様の経験を持っているようだ。あれほどひどい扱いを受けてなお、幾星霜を超えてなお、劣情を刺激せしめる内田有紀。これが天才でなくて何だというのだろう。とくに暑い夏の午後には、「TENCAを取ろう! -内田の野望-」のサビを口ずさんでしまうことさえある。
 内田有紀。作品にさえ恵まれてさえいれば、もしかすると彼女はほんとうにTENCAをとっていたかもしれない。今もおれが、心底嫌いであるはずのこの曲を口ずさんでしまうのは、きっと彼女の才能に対する敬意の表れなのだろうと思う。おれは今でも、彼女がTENCA人となって内田幕府をひらいた平行宇宙のことを思わずにはいられない。その平行宇宙からは、いつでも美しい光が放たれている。おれにとって、天才の輝きとは、そうしたものだ。

【参考】
疾風の如く、女を語れ! 第一章 川本真琴 - 飲めヨーグルト 
静林の如く、女を語れ! 第二章 ともさかりえ - 飲めヨーグルト