読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いま、海獣がアツい!!

写真

IMGP2269-1

ほとんど、妖怪。
そうはいっても、もちろん、彼らは妖怪ではない。
にもかかわらず、我々には彼らが妖怪のようにみえてしまうのはなぜなのか?
今日はその辺のところから考えてみようと思う。
おれが思うに、それは彼らが脳味噌の外側の住人だからだ。
たとえば、虎でも狼でも、なんでも構わないのだが、彼らの姿を我々は恐ろしいと思うだろうか?
思わない。彼らの強大な爪や牙は、たしかに脅威ではあるのだけども、それはあくまでも現実的なもの、メジャーでその長さを測ることができるような類のものでしかない。そんなものに我々は脅えたりはしない。我々が足元がグラグラするほどおっかなく感じるのは、「なんだかよくわからないもの」に対してだけだ。虎や狼は、もうすっかり我々の脳味噌の中に取り込まれてしまっている。虎と狼がどれほど強くとも、我々にとって彼らは動物に過ぎない。決して妖怪ではないのだ。

IMGP2220-1

ところで、ちょっと話は変わるのだけども、あなたの祖国である日本には、かつて非常にユーモアに富んだ僧侶がいたという。とても、有名な人物だから、もしかすると、あなたも彼の名前を聞いたことがあるかもしれない。彼の才能を示す有名なエピソードがある。こんな話だ。

足利義満が一休に出した問題の一つ。 「屏風絵の虎が夜な夜な屏風を抜け出して暴れるので退治して欲しい」と義満が訴えたところ、一休は「では捕まえますから虎を屏風絵から出して下さい」と切り返し、義満を感服させた。
wikipedia一休さん」の項より引用)

素晴らしい機転だ。しかし、仮に僧侶がとんちを何一つ思いつくことができず、闇ルートから虎を持ち込んで縛り上げたとしても、別にそんなことは大した問題じゃあないとおれは思う。屏風の虎と、生きている虎。両者にはほとんどの場合、違いなどないのだ。あったとしても、たいていの場合、我々はそれに気がつくことができない。我々の生きている世界では、常にイメージが先にあって、ほんものは必ずあとからやってくる。我々は屏風に描かれた虎と生きている虎との答えあわせをすることになる。もちろん、「正」とされるのは屏風の虎、イメージの虎だ。「ほんもの」の虎は、ここではイメージの影に過ぎない。これは虎に限ったことではない。我々が見るもの、聴くもの、感じるもの、そのほとんどはすでに屏風に閉じ込められているのである。

IMGP2278-1-2

海獣は、違う。

少なくとも、おれにとっては違ったのだ。おれは海獣の姿を何度見ても覚えることができない。海獣には、イメージの世界に取り込まれることに対抗する、不思議な力があって、おれの中ではいまも彼らの姿はあいまいなままだ。こうして写真を眺めてみると、どちらかといえば醜さに片足を突っ込んだようなデザインであるようには思う。特に陸にあがった海獣のあわれっぽさ、「呪われ」感は格別なものがある。最高にブサイクな生き物だ。
もしかするとこの「醜さ」こそが、海獣をイメージに取り込まれることから防いでいるのかもしれない。美しいものを人は脳味噌の中にしまいたがるものだから。海獣類はその醜さゆえに、世界でただひとつ、ほんものがほんものとしての価値を失っていない種族ともいえるかもしれない。
何でも人間に敷衍して考えてしまうのはおれの悪い癖だけれども、あえてそれをやってみるとすると、人間ではブサイクだけが「ほんもの」でそれ以外はみなまぼろしに過ぎないということもできそうだ。「いま、海獣がアツい!!」と宣言するということは、すなわち、いま「ブサイクがアツい!!」と宣言することになるのかもしれない。仮にそうであったとしても、おれは何度でも宣言したいと思う。「いま……海獣がアツい!!」
そして、もちろん、ブサイクもアツい。