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(我が家の)ゼア・ウィル・ビー・ブラッド

写真 生活 思い出

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ずっと、母方の祖父のことが好きではなかった。
そう言い切ってしまうのも実際とはやはり違っていて、より正確に表現するならば、好きだとか嫌いだとかいう以前の問題で、おれは祖父の生き方を全く理解することができなかった、と言うべきなのだろう。おれにとっての彼は、ほとんどエイリアンのようなものだった。たとえば、母方の祖父はかつて家庭にほとんどお金を入れることがなかったという。これで祖父が酒や博打に現をぬかす放蕩者であったなら、まだ人間的な理解を行う手だてもあったかもしれない。しかし、タチの悪いことに、実際の彼は非常に勤勉な男だった。日が昇る前に畑に出かけてゆき、日が落ちても月明かりの下で働く。それが祖父の生活であった。それほどまでに必死で働いていながら、家庭にはまるでお金を入れない。奇妙な生き方だ。
祖父はいったい何のために働いていたのだろう? 母の話によれば、祖父は畑仕事で得たわずかな利益の全てを、土地の購入につぎこんでいたようだ。別に土地転がしなんかを企んでいたわけではなく、祖父は自分の畑を少しでも広げていきたかったのだ。端からみれば、彼はまるで家族よりも畑を愛しているようにも見えたし、実際に彼の子供たち*1のなかにもそう感じるものはいた。意趣返しというわけではないのだろうが、彼らの中には、祖父が年老いて弱ってしまってから、ひどく冷たい態度で接するものもいたようだ。母はその度に、「何もわからなくなった年寄りに、あんな態度はひどすぎる!」といって憤慨していたが、やはりそこには容易に解決しえない恨み辛みがあったのだろう。母は九人兄弟の八番目の娘で、祖父の味方をするのはたいてい母と九番目の叔母であった。それでは祖父が子供時代をこの二人を特別に可愛がっていたかというと話は全く逆であって、やはり八番目だの九番目だのになると親としても存在を忘れる……というわけではないのだろうが、二人はあまり手をかけてもらえなかったようだ。これは完全に想像なのだが、母と叔母の二人は子供のころからそのことを承知していて、もともと親の愛情や承認に大した期待を持っていなかったのではないだろうか。そのせいで、うえのきょうだいほどの確執も生まれなかったのでは、とおれは考えているのだが、もちろん二人にそれを確認したことはない。
 そうはいっても、祖父がまだ生きていたころは、母も子供時代の恨み言をもらすことがよくあった。恨み言といっても、たいていは笑い話のように語られるのがほとんどだった。祖父が家庭をかえりみないせいで、家族は生活保護家庭よりもずっと貧しい生活を強いられていたのだと母は言う。母の生家は沖縄本島から300kmも離れた島にある。今でこそそれなりに開発もすすみ、リゾートとしても人気のあるあの島も、母が幼少期を過ごした1960年代にはまさに僻地というほかのない場所だった。電気もなければ水道もない。
「私の子供のころは、ケーキなんてものはなかったなあ。甘い物が食べたくなったら、山で芋を掘るか、蜂の子をつかまえて食べるかするしかなかった」そう言って、母は笑った。家族で食べるためにケーキを切り分けていたときのことだった。そのときのケーキは、バタークリームを使ったもので、正直に言えば全く高級なものではなかったのだけど、それでも母の子供時代から考えればそれは天上の果実に等しかっただろうと思う。まあ、母親が言うには、蜂の子は最高級の菓子にも負けないくらい美味なものであるらしいのだけど。
父と母は同年代のはずなのだが、那覇のど真ん中で育った父の少年時代と比べると、母のそれは時間の流れがゆうに20年は遅れているように感じてしまう。「百年の孤独」あたりを読むときには、母が生まれた島の風景を思い浮かべるのがちょうどいい。ほんとうに、そこはマコンドのような場所なのだ。日本でもアメリカでもない、極東世界の最外縁。そんな僻地の貧困はさぞかし強烈だったろうと思う。家庭をそんな貧困に陥いれておきながら、ひたすら畑を買いつづける祖父の生き方は、幼いおれの目にはたいへん愚かであるように映った。馬鹿馬鹿しい生き方だとも思った。畑なんか買うより家族のために金を使ったほうがいいじゃんとしか思えなかった。実際、そうまでして買い集めた畑も、結局は二束三文にしかならない代物に過ぎなかったし、そうとはいっても二束三文の土地にも遺産争いは起きるわけで、おれはそうしたあれやこれやを横目で眺めながら、祖父の葬式の間ずっと「この男の人生はいったい何のためにあったのだろう」なんてことを冷やかに考えていた。
この夏で、祖父が死んでちょうど六年になる。母は祖父の人生を話ることが多くなった。もはや母は祖父について、その美質しか話さない。といっても、祖父は強かったとか、優しかったとか、そんな話をするわけではない。母が語るのは、祖父がどれだけ愛すべき人物であるか、どれだけけなげな生き方をしてきたか、そういったことだ。そして、母はこういうのだ。祖父は運命的にああした生き方を選ぶしかなかったし、祖父はわずかな選択肢のなかで懸命にやれることをやったのだと。母が語るところによれば、祖父がこれほどまでに畑にこだわったのには理由がある。祖父の父*2は、赤毛の大男で、古い時代の男らしく、専制君主のように振る舞う父親で、末の息子である祖父はそうした家長の圧政のもとで育った。祖父は学校にもまともに通わせてもらえず、下男のように扱われたあげく、畑も全く分けてもらえなかったのだという。祖父には自分だけが不当に扱われているという思いがあった。父親への思慕と憎悪があった。だから彼は、自分の力で大きな畑を手に入れて、父親と、父親の権威を受け継いだ上のきょうだいたちを見返してやらねばならなかった。畑の権利関係では、その後も何度となくきょうだいと諍いになった。あるときなど、祖父はきょうだいに額を割られたあげくそのまま裏山に放置されてしまった。夜になって何とか自力で蘇生した祖父は、血まみれのまま家に帰り、悔しさのあまり一晩中声をあげて泣いた。その光景を、母は今でも鮮明に覚えているという。
 そうした祖父の姿を、母は自分の父親というよりもむしろ、自分の子供のことを語るようにして語る。そこでは、いかに純情であったか、懸命に生きていたかということだけが問題なのであって、その結果として残された家族の不和であるとか因縁であるとか*3は、もはやどうでもいいことのようだ。その語りに、嘘がなかったと思わない。嘘も脚色も美化も、きっと全力でほどこしているだろう。ほんとうに不思議なことだけど、こんなささやかな物語が描くちっぽけな人生には、おれが遠い外国の小説に求めていたようなものが全てあるような気がする。運命と人間、はかない願い、暴力と流血。それはおそらくは母が父親をもう一度愛するための物語だったのだろうが、結果的にそれはおれが祖父をとらえなおすための回路としても機能した。
 晩年、ボケがはじまってしまった祖父は、孫であるおれを忘れないようにと、何度も紙におれの名前を書きつけていたのだという。そうした努力も空しく、祖父はおれの名前を忘れてしまったし、母の名前さえもわからなくなってしまった。おれもたいがい冷血だから、そのことに何も感じはしなかったのだけど、いまとなってみればおれもずいぶん幼かったと思う。あのとき、かち割られた祖父の額から噴き出した血は、横浜でこうして暢気にブログを更新しているおれにも確かに流れている。いまのおれには、それを信じることができるような気がする。その一方で、血をつながった人間についてでさえも、いちいち物語を介さなければ親しみをとりもどすこともできないだなんて、おれもたいがい病気がひどくなってきたなあ、なんてことも思う。祖父が畑を耕すことしか知らなかったように、おれもまた、他のやり方を知らない。

*1:おれにとっては、叔父や叔母にあたる

*2:つまり、おれの曾祖父にあたる人物だ

*3:面倒なので省くけれども、祖父は結局自分の父親がしたのと同じことを子供たちにしたのだ