最終章 宇多田ヒカル

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宇多田ヒカルについて、ずっと書きあぐねたまま、どれだけの時が経ってしまったのだろう。少なくとも年の単位で、おれの文章は彼女に触れることをためらい続けている。もともと、おれは「風林火山の如く女を語れ!」という、90年代のアイドルをテーマにした一連の企画の最終章に宇多田ヒカルをもってきたいと考えていて、風*1、林*2、火*3、とここまでは順調に書き進めることができたのだけど、山、すなわち宇多田ヒカルまでやってきたところで、突然に文章を書くことができなくなってしまったのだった。
他の三人に比べて、宇多田ヒカルに特別な思い入れがあるわけではない。それほど難しいテーマだとも思っていない。おれは、彼女のことは分かりすぎるくらいに分かっているつもりだ。にもかかわらず、おれが彼女について書くことができないのは、書いてしまえば、書いて、ネットにアップしてしまえば、きっと彼女はその文章を見つけてしまうだろうことを、子供がサンタクロースを信じるよりも強く信じているからだ。と、そんなことを言ってしまえば、あなたは「ああ、こいつイカレてんな」などといって、ブラウザを閉じてしまうかもしれない。おれはそれでもいいと思っている。なぜならば、このくらいのことでは宇多田ヒカルはブラウザを閉じないということもおれはわかっているからだ。
この宇多田ヒカルに対するおれの盲目的な信頼がどこからくるのだろう。自分でもよくわからないが、それはもしかすると、彼女の発する「同級生」感によるものなのかもしれない。そう、「同級生」という関係」が一番適切だ。おれと彼女は友達ではないし、まして恋人などではありえない。同じクラスにいて、ちゃんと話せばすごく仲良くなれるんだろうなあ、なんてことをお互いに(ここが重要だ)思いながら、ロクに関わらないまま卒業してしまうという「距離」。

「いつの日かdistanceを抱きしめられる/ようになれるよ(FINAL DISTANCE)」

「会いたくて会いたくて震える女王」が西野カナならば、会いたくて会えないdistanceを抱きしめ女王が宇多田ヒカルであることは論をまたない。このdistanceを抱きしめる、という一行に潜む優等生的病理の退屈さは、我々同級生にとっては確かに親しみ深いものだが、宇多田ヒカルの同級生性はむしろ、そこにわずかにメンヘルの香りを漂わせているところにある。

もちろん、我々が思春期を過ごした千年紀末は、心の闇、病み、メンタルのヘルスが何がしかの機能不全に陥っていることが、何かを語るための最低条件とされていた時代であったから、メンへル的であること自体は問題とするにはあたらないし、それは宇多田ヒカルに限ったことではない、ということもできる。椎名林檎Cocco、あるいは浜崎あゆみでもいい。当時人気を博した女性アーティストたちに比べれば、むしろ彼女のメンヘル性は薄すぎるほどだ。この「薄さ」に我々の同級生性をひもとく鍵がある。彼女のメンヘル性は「薄い」わけではなく、薄められている、ということ。そこに気が付かないのなら、もはやおれに彼女の同級生を名乗る資格はない。
退屈な優等生という彼女のキャラクターは、我々の多くがそうであるように、病みを意思によって制御しようという方向の努力を重ねてしまう。そんな風に、キツキツに縛り上げた自我からほんのわずかに漏れ出した病み。それが宇多田ヒカルの身のまとうメンヘル的な香りの正体だ。決して声高に主張されることのない苦しみは、それだけにかえって真実味を増してゆく。
こういう言い方は我ながらちょっとどうかと思うのだが、おれは宇多田ヒカルを見る度に『あんた、幸せにはなれないかもしれない』なんてことを思ってしまう(ダンス・ダンス・ダンス)。いっそブレーキの効かない領域までアクセルを踏み込んでしまえば、あるいはもっと楽に生きられるのかもしれない。しかし、聡明なる彼女が選んだのは、もっと地道で、確かな解決法だった。

この「光」プロモーション・ビデオを思い出してみてほしい。あのビデオには、彼女のたどりついた結論が誰にでもわかる形で表現されている。そこでは、宇多田ヒカルは皿洗いをしながら歌を歌っている。「皿洗い」というのがポイントだ。別にこれは彼女の巨乳を強調するためのあざとい演出ではない。結局のところ、病みなどというあやふやなものは、皿洗いという日々繰り返される確かな「生活」によってやり過ごすしかない。彼女はそう我々に語りかけている。これは、ANKOKUの1982年生まれがたどり着きうる最良の結論だろう。
しかし、問題があるとすれば、彼女自身が全くをそれを信じていないように見えることだ。だいたい、世紀末育ちのおれたちが、「生活」なんて退屈なものを受け入れて生きていくことなどできるわけがなかったのだ。日常なんてクソ喰らえ。生活するくらいなら、死んだほうがマシ。それが我々ANKOKU世代のポリシーだ。
とはいえ、我々とて何も生きることを否定したいわけじゃない。しかし、イマジンしてほしい。これから書かれる全ての小説が「プレーンソング」みたいになってしまったら?あるいは全てのマンガが「よつばと!」になってしまったら、おれたちは明日からどうやって生きていけばよいのだろうか…。
誤解しないでもらいたいんだが、おれはこれらの作品の素晴らしさをよくわかっているつもりだ。しかし、それはそれらが数多のファンタジーのうちのひとつだからこそだ。それが「ただひとつ」の物語だ、なんてことを言われたら、我々ANKOKU世代はすぐに窒息死してしまうだろう。恐ろしいことに現実であるとか、生活であるとか、そういったものは我々にそうしたことを平然と押しつけてまるで悪びれる様子もない。もちろん、聡明な宇多田ヒカルはその恐怖を克服する術もを見つけ出していた。

「心の電波/届いていますか/罪人たちのHeartStation(HeartStation)」

この歌詞のあふれるような中二力はどうだろう!例えば、宇多田ヒカルの同級生性は、おれたちが海辺のエロ本を枝でめくっているとき、近所に大学生とつきあっていたりするようなところにあるわけで、そんな彼女が中二への回帰志向を見せているのは非常に興味深い事実だ。しかしながら我々は中二のまま生きていくことはできないという断念は、この曲の中にさえはっきり示されていて、「今も僕らをつないでる/秘密のヘルツ」という言葉が、ピュアな心の持ち主にだけ見えるビデオショップ「GOKURAKU」のイメージがダブってしまうようでは、あらゆる奇跡が台無しになってしまう。そう考えてみると、やはりDistanceに戻って同級生するのがいいような気もしてくるから不思議だ。

「無理はしない主義でも/君となら/してみてもいいよ(Distance)」

この歌、おれの解釈によれば(誰が解釈しても同じ結論にしかならないとは思うが)、「無理はしない主義でも/君となら(セックス)してみてもいいよ」 というメッセージに他ならず、結局のところ、物語に憑かれた空しさと生きることのめんどくささを止揚するのは性しかない、という事実に、宇多田ヒカルはごく初期に到達していることがみてとれる。無限に誤り続けるコミュニケーションの砂浜で、一瞬の波を待ち続けること、セックス、おれたちが海辺のエロ本を枝でめくっているときクラスのあの娘は近所の大学生とつきあっているという無力感、それらの光景はおれと宇多田ヒカルとのDistanceの間に点在しているのだから、それらを辿っていけば、いずれおれは宇多田ヒカルと「やっと会えたね」ということになるのだろうが、おれが決してそうしないのは、適切なDistanceを保つ事に同級生としての節度を見いだしているからだし、実際にはおれの教室に宇多田ヒカル的な人間はいなかったのだが、実際におれの教室にいた同級生の誰よりもやはり宇多田ヒカルはおれの同級生だった、と言ってしまうとあなたはまた「ああこいつはもう手遅れだ」とブラウザをトリアージしてしまうかもしれないが、おれはまあ、それでもいいと思っている。

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