あるいは、本来あるべきだった小島よしおのように / 榎屋克優「日々ロック」

 ロックという言葉を口にするときには、いつもとてつもない気恥ずかしさに襲われる。音楽のジャンルとしてではなく、「ロック」というある種の価値観……たとえば「反体制的精神」なんてもの……について語るときには、とくにそうだ。今という時代にあっては、もうロックという言葉は常に時代遅れになってしまっているし、逆にロック、挫折したかつての若者たちの屍が、かえって時代の閉塞感を強めているような気さえしてしまう。
「小島よしおが、『そんなの関係ねえ!』とほんとうに言い切ることができていれば、日本の歴史は変わっていただろう」という言説がよく聞かれるが、事実はおそらく逆であって、なぜ、小島よしおは「そんなの関係ねえ!」という、どんな金言にも勝る、最高に「ロックな」フレーズのあとに、なぜ「はい、オッパッピー」という最低のフレーズでおどけてみせなければならなかったのか、というところにこそ、日本の歴史のどうにもならない重さがあらわれているのだ。どうして、小島よしおは「そんなの関係ねえ!」と最後まで言い切ることができなかったのか? 
 もちろん、敗れ去ったのは小島よしおひとりではない。どんな思想家も、革命家も、ロッカーも、若者たちはひとりの例外もなく敗れ去っていった。クソ社会がクソ社会のまま長らえているというだけで、彼らの敗北は明らかだ。かつての若者たち、その敗北の歴史はおれたちに繰り返し無力感をすりこみつづけた。おれたちはもはや道化のように生きるしかなかった。恐るべきアパシーに侵されながら、おれたちは「そんなの関係ねえ!」のあとを引き継ぐことのできるロックを待ち続けていた、もうずっと長い間……。

日々ロック 1 (ヤングジャンプコミックス)

日々ロック 1 (ヤングジャンプコミックス)

そこで、日々ロックだ。このマンガがロックであるのかどうかは、僕にはわからない。ほんとうはこのマンガ、ロックじゃないかも……と思わせるところはいくつもある。まあロックかどうかはひとまず置くとしても、そもそもマンガとしてちょっとどうかと思わせるところだって、ある。ドラムのバンド仲間が死んでどーのこーの、なんてエピソード(第6話)は心底どうでもよい代物だったし、早川さんの扱いも非常に雑(第7話)だ。ストーリーだけをみれば、陳腐な代物だと言い切ってしまってもいいかもしれない。
 しかしながら、このマンガは真に読むべき価値のあるもので、そうあらしめているのはやはり主人公である日々ロックこと日々沼拓郎の魅力だ。「うるせえバカ共/黙ってフェラチオでもしとけ」と言い放った日々ロックのふてぶてしいカッコよさ、彼はあらゆるコマから全力でエネルギーを発散している。彼は確かにロックスターとしての魅力を備えているのだが、それはステージの下に多くの崇拝者をつくるような性質のものではない。ステージの上も下も関係なく、彼は多くの人間に火を点けて、「今夜いますぐに」何かをやらなければならないような気持ちにさせる。もちろん、おれもそのつもりだ。明日にでも、いや、今すぐにでも、ロックしなければならない。ギターが弾けるとか弾けないとか、そんなことは関係ない。何しろ、日々ロックはスコップでステージに立ったのだから。できるか、できないか、勝ち負けだって関係ない。日々ロックも常に負けていて、バンド仲間たちはひとりひとりは最終的にはかなり悲惨な末路を迎えることになる。最も悲惨なメンバー(ベース)は、少年院にブチこまれたあげくに一億五千万の大借金を背負ってしまう。日々ロック本人としたって、ストーリーとしては頭蓋骨が割れたという表現に留まっているけれども、描写としては完全に死亡してしまっている(とおれは思う)
しかし、仮にそうなることがあらかじめわかっていたとしても、彼らは「今夜いますぐに」やっただろう。その決意に、「ああ楽しい…/こんなことが死ぬまでできたら…いいな」という幸福が寄り添う。だからもう、我々も、もはや何一つ恐れることはないのだ。ためらいなく「そんなの関係ねえ!」というべきだ。日々ロックを読んだあとの我々は、ひとりひとりが「本来あるべきだった小島よしお」になれるのだ。おれは、もう、とっくにそうなっている。