待ちつづける

 
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とある駅の改札口に、誰かを待ちつづける男がいる。男の顔に刻まれた皺は深いものだったけれども、そのからだつきは頑健そのもの、といった雰囲気で、相当な強度の肉体労働に長年従事していたのだろうことが想像できる。中年も半ばを過ぎて、老人の半歩手前、といったところだろうか。男は、くすんだ色の服を身につけていた。つまり彼は、どこの街にでもいるような男だった。
 おれははじめのうち、その男のことなんてまるで気に留めていなかった。けれども、すこしずつ、何か変だな、と思うようになった。というのも、おれがその駅を訪れるときはいつでも、その男の姿が改札口にあるのだ。きっと、彼は来ることのない人を待っているのだろうとおれは考えるようになった。
 もちろん、すれちがいざまに何となくそう思っただけのことで、彼の境遇について深く想像力を巡らせたわけではない。何といっても、おれは彼の待ち人ではないし、おれには来るはずのない待ち人などいないのだ。 
 おそらく、彼は一日の大半をそこで誰かを待つことに費やしているのだろう。そのことについて、おれはあまり想像力を使いたくはなかった。彼の様子は、あてどなく誰かを待っている、というようなものではなかったからだ。彼の態度にはほんのわずかに苛立ちの気配があって、約束の時間はとっくに過ぎているのに、待ち人が姿をあらわさないことに戸惑っているようにもみえた。そんな気持ちで誰かを待つのは、きっと辛いことだろう。おそらく、彼にとっては、待ち合わせの約束は具体的なものなのだ。待ちつづける男の足元にはいつも、大きな鞄と女物の傘が置かれていた。
 そんなことを考えるのも、男の横をすりぬける一瞬の間だけのことで、家に帰れば男のことなんて全く頭の中には残っていない。だから、今までこの男のことを日記に書くこともなかった。
 ある夜のこと、男はいつものように改札口にたっていた。おれもいつものように彼の横を通り過ぎようとして、通り過ぎていった。なぜか、いつもの駅の風景とはどこかが違うような気がした。どこが違う? 一秒ほど考え、一秒前の風景を思い返してみて、違和感の正体に気がついた。といっても、それはほんのささいなことだった。男の髪が短く刈りそろえられていたのだ。だからなんだ、と言いたくなるほどちっぽけで、誰にとってもどうでもいい、そんな風景に、おれは自分でわけがわからないくらい動揺してしまった。あたりまえのことだが、彼にも「生活」というものがあったのだ。おれはいつのまにか、彼には「生活」などないと思い込んでいた。誰かを待ち続ける時間だけに、彼は存在するのだと思っていた。
 そんなわけがあるはずもない。男は、誰かを待ちつづける日々の中で、散髪をした。たぶん、食事もしただろうし、入浴もしただろう。終電が行ってしまったあとには、住処に戻って眠ったはずだ。家族だって、いるのかもしれない。
 そうした想像はおれをたまらなく悲しい気持ちにしたが、通りすがりの人間をだしにこんなことを考えるおれはひとでなしだとも思った。待ち続ける男は間違いなく人間なのだが、おれは心のどこかで彼を人間だとは思っていなかった。
 もちろん、だからといってどうということはない。何といっても、おれは彼の待ち人ではないし、おれには来るはずのない待ち人などいないのだ。