なぜ、安心しているのか?

不安に陥る、という表現がある。ちょっと前のおれを表すのに、これ以上適した言葉はないだろう。おれは確かに不安に陥っていた。もちろん、不安の源は原発だ。で、今のおれがどういう状態にあるかっていうと、これはなかなか表現が難しい。おれはいま、安心している。それは確かなのだけど、それはやはりただの安心とはちょっと違う。今のおれの状況を、できるだけ正確に表現しようとするならば、これはもう「安心に陥る」とでもいうほかないのではないか、と思う。なぜって、おれは理性では…もちろん、おれにそんなものがあるとしての話だが…理性では、まだまだ安心するような時間じゃない、という判断しているからだ。だってそうだろう。不安を感じていたころに感じていた不安はだいたい現実化してしまっているし、事態が好転する兆しもない。不安はより強まっていて然るべきだ。にも関わらず、おれは安心してしまっている。自分の意に反して、安心感だけが暴走している状態だ。おれはそのことがぼんやりと不安だ。安心する自分を止められないことに、うすーい不安を抱いている。おれはまだまだ不安でいるべきだと考えているのに、そうした自分を放っておいて、なぜおれは安心してしまうのか? その答えは考えるまでもなく明らかで、要するにおれは単に不安にいることに疲れてしまっているだけなのだ。不安でありつづけることに耐えられなかった。たったの一ヶ月も、持たなかった。
これはおれの勝手な印象なのだけど、こういう人間はおれだけじゃないように感じる。それどころか、社会の空気は概ねおれと全く同じ気分に流されているんじゃないかとさえ思う。けっこう皆、根拠なく安心してしまっているんじゃないか。そんな脳天気な野郎はおれだけかもしれないが。でも、仮に、仮にだよ、仮に社会全体が今のおれと同じ安心の仕方をしているすると、これは非常に危険極まりない状態だ。おれによるおれの気分予想では、今年の夏、おれはひどい不安に陥っているはずだからだ。震災の被害や原発の状況が、はっきりとした数字にまとまってくるのは、おそらく初夏のころで、7月や8月にはおれたちの生活は今よりももっとはっきりした形でうまくいかなくなっているはずだ。当然おれは不安になる。その不安は、おそらく震災直後よりももっと深く、癒しがたいものになるだろう。いったん意味もなく安心してしまったことで、おれはもう自分の感覚や自分の判断基準を何一つ信用できなくなっているはずだからだ。おれひとりが不安に陥ってしまうだけならば、まあたいした事ではないっちゃないんだけど、おれにとっちゃあ大問題だし、おれのような人間が百万人も発生すれば社会にとっても深刻な脅威になるだろう。ちなみにおれは、おれのような感受性の持ち主は日本に五百万人はいるはずだと踏んでいる。
そんなわけで、おれはいまのうちから自分を戒めていかなければならないと考える。決して安心してはいけない。不安を易々と手放さない。ひたすら精神の低値安定を目指した心理操作を自分に対して行っていく。東電の会見を見ると心底ぞっとするのでおすすめだ。多少効き目が強すぎるかもしれないが。そうして不安を維持していくことは、おれの政治的な振る舞いにも少なからず影響を与えるだろう、とおれは考えている。おれたちはもう、そうしたことから目をそらして生きていくことが許されなくなってしまった。合言葉はジャスト・ワナ・ハヴ・不安。勇気を持って不安であれ。この態度は、矛盾しているように思えるかもしれない。けれども、この矛盾を持ってしてはじめて為せる意思決定があるはずだとおれは考える。

今週の日曜日には、選挙がある。