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日常の無責任

ばらの花を、買った。時代錯誤なほどに赤いばらだ。そんなの柄じゃないのは承知の上だし、おれの方だってべつだん赤いばらが好きなわけじゃない、好みで言うなら白に少し緑色がまじったような色合いがおれは好きなんだ。じゃあなんで買ったんだっていうと、そりゃたんに安かったからだ。渋谷の駅前で、一輪百円でばらを売っていたんだ。二輪買っても、週刊少年ジャンプより安い。いい買い物をしたはずだけど、帰りの電車でばらを持って買えるのは、ばかみたいで恥ずかしかった。

日常を生きろとか日常に帰れとか、最近はそんなことがよく言われているような気がするけれど、そんなの実に簡単なことで、わざわざそうしようとしなくとも、あるいは、そうはしたくないと思ったところで、否応なしにおれの感覚は日常に飲み込まれてしまう。

この大災害にあっても週刊少年ジャンプは一週間しか休まなかったし、福島原発一号機のメルトダウンが公になった今週にも、当然のように週刊少年ジャンプは発売されているわけで、それを読んでタイガー・フィッシャー超かっけーとか言ってみたり、ただぼんやりとばらの花を眺めてみたり、そんなことをしているうちに、いつも通りの一週間が始まってしまう。もちろん、仕事をしているのは週刊少年ジャンプの編集部だけじゃない。おれにだって仕事はある。地震原発のことはいつだって気がかりだけれども、仕事中におおっぴらにtwitterを見る訳にもいかないし、何事かを考えているような振りをしながらxlsファイルを開いたり閉じたりしている間に、なんとなく日常に戻ってきたような気分になってしまう。おかしい。ここのところずっと、おれは、「日常」という感覚のたくましさ、しぶとさを痛感しているのだけど、それは決してポジティブな意味ではない。どちらかというと、おれは、こうも易々と「日常」に帰ってきてしまうことにやましさやうしろめたさを感じている。恐れるべきものを恐れることができていた。「ジャスト・ワナ・ハヴ・不安」なんてことを言っていたおれだけど、このままでは単なる不安ワナビーになってしまう。いくつもの見過ごしてはならないものを置き去りに、日常に引き戻されてしまう。

日常。これは単におれだけの感覚かもしれないけれど、日常という言葉は、美しいものとして扱われすぎてきたように思う。うまくいえないけれど、日常という言葉を使えば、政治的にフラットな場所に居られるかのような思い込みがどこかにあって、おれはその幻想の中で生きてきたような気がする。日常という枠組みのなかでは、誰も政治的な発言をしない。けれども、何も言わないということも、ひとつの政治的な態度である、ということをおれは意識しないまま、今日まで生きてきてしまった。結局のところ、それはあいまいな現状肯定で、微温的な保守主義なのだけれども、おれは主観的には何も決定していないつもりでいた。何も決定していないのだから、責任もない。こうやって言葉にしてしまうと、そんな虫のいい話があるかと思うけれど、おれの中には確かにそんな気分があった。永遠に結論を保留しておくということは、何かを決定しているということに等しい。こんなことになってしまうまで、そんな単純なことにも気がつかなかった。

こうした種類の無責任は、「専門家のやることに素人は口出すな問題」*1と強い関係性があるように思う。「専門家のやることに素人は口出すな」という言葉はインターネット上でもよく見かける言葉だけども、おれの見る限りでは、この言葉はわりあい妥当なものとして人々に捉えられているように思うし、おれ自身も、多くの場面でこの言葉は有効に機能するのだろうな、と思う。思うのだけれども、そこにはわずかな違和感があった。何もかもを各分野の専門家に丸投げしてしまえばうまくいく、というのは、どこか乱暴な考え方のように思えたのだ。

高度の専門性だけが物を言う世界、というのは確かにあって、おそらく世の中の問題の九割方はそうしたものなのだろう。しかし、今回の原発事故や、これまでの原子力行政の歴史を振り返ってみて考えると、やはり無条件に専門家に全てを任せていればそれでいい、ということはできないのではないかと思う。

まず、単純な話として、「専門家」は「専門性」の化身ではない。人間なのだ。おれたちがそうであるように、彼らもまた、様々な利害関係のもとで生きていかざるをえない。ひとりひとりの専門家もそうだし、ましてその組織ともなればなおさらだ。専門家の集団が、純粋に科学的知見のみに基づいた行動を常にとりつづけていられるとは限らない。短期的な利益のために、安全性を犠牲にしてしまうことも十分に考えられることだ。だから、本来であれば外部の組織がその運用の妥当性を適切に評価しなければならないのだけど、日本ではその仕組みが全く働いていない。*2これは原子力がどうこうということじゃなくて、単に制度の設計・運用の問題だろうと思う。*3専門家が、十分にその能力を発揮するための仕組みを、この社会は全く用意できていない。専門性の底にある価値判断基準、倫理についても、おれたちはほとんど何の合意も形成できていない。そんな状況のもとで、全てを専門家に丸投げしてしまって、「日常」にひきこもっていればよい、と言ってしまうことは、あまりにも無責任過ぎるように思う。

*1:そんな言葉はないかもしれないけれど、おれにとってはずっと気がかりだったテーマ

*2:参考→SYNODOS JOURNAL : 東京電力福島第一原発の何が問題だったのか 検証その2 橋本努

*3:ただ、正直に言ってしまうと、たとえ監視システムが有効に機能していたとしても、おれは原子力発電を継続するべきだとは思えない。ウラン鉱山の残土問題や、放射性廃棄物の問題などを考えると、原子力発電は燃料原料の採掘から廃棄に至るまでの全体的なデザインがまるでないままに走り出してしまった未完成な技術であるように思える。高レベル放射性廃棄物については地中深く沈める以外に今のところ処理方法はないようだし、この処理方法でさえ未だ実績はない。