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「『真夜中のカーボーイ』でもダスティン・ホフマンは『怖い、怖い』っていって泣いたの。憶えている?」
「いや憶えていない。泣く男なんて男じゃないよ」
「そんなことないわ。私はきちんと泣ける男の人が好き」
 そんな会話をした。

「あの映画の中でダスティン・ホフマンが『アイム・スケアド』(私はこわい)『アイム・スケアド』というところがある。そこがすごくよかった。僕も直接行動をしようと思うとき、とてもこわくなるんだ。『こわい』『こわい』って思う」

マイ・バック・ページ - ある60年代の物語

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原作ではとくにつながりを持たないこのふたつの場面を、ひとつの文脈でつないでみせた。この映画のいちばんに見事な点はそこだと思う。原作にはないエピローグも、この文脈のつながりの延長線上に用意されていて、おれはまんまと心を打たれてしまった。
原作も、映画も、青春の蹉跌と後悔を描いている点では同じなんだけれども、その後悔の中身はだいぶ違っているようだ。原作に記された後悔は、「強くあれなかった」ことにあるように思える。逮捕された後、川本はジャーナリストとしての矜持を守ることができず、権力に屈服してしまう。その弱さについて、川本は忸怩たる思いを抱いている。
いっぽうで、映画では逮捕後のことはほとんど描かれていない。この映画の描く後悔は、むしろ、「弱さ」が足りなかったこと、恐れを抱きつづけることができなかったこと……きちんと泣くことができなかったことにあるのじゃないかと思う。
真夜中のカーボーイ』を挟んでインチキ左翼である梅山と、まともな人間の代表である眞子が同じ立場に立ち、どちらにも共感可能でありそうな沢田(映画版における川本)だけが取り残されてしまうという構図はとても面白い。CCR宮沢賢治が好き、という一点だけで梅山を信じてしまう沢田なのに、泣くことはできないのだ。*1梅山とともにCCRを歌う沢田の姿はあまりにも無防備で、恐れをまるで知らないようにみえた。
いっぽうで、梅山の方は『こわい』と思う自分をきちんと認めていたはずなのに、いつのまにかそれをすっかり忘れてしまったようだ。仲間に人殺しを命じておきながら、漫画を片手にスパゲティをモリモリ食べる梅山の異様な姿は、彼の破滅に十分な説得力を与えていたように思う。梅山は九割九分九厘インチキでできているような男で、そんな彼に残されたたった一厘のほんとうらしいところも、結局は失われてしまった。*2あんな風になってしまったら、もう人は人の中では生きられないだろう。
言葉にすると陳腐なものになってしまうけれど、沢田や梅山に欠けていたのは、やはり他人への共感や想像力で、いってしまえばそれは前園勇にもなかった。言葉や思索、政治、そうしたゲームの世界に生きている人間は誰も想像力をもっていない。彼らが共感できるのは同じ言葉を持った人々に限られてしまう。たとえば、それはCCRであったり、宮沢賢治であったり、資本論だったりするのだろう。彼らはそうしたアイテムを何一つ知らないであろう、殺された自衛官に共感することはできないのだ。この映画の中で想像力をもっていると言えるのは、眞子をのぞけばフーテン連中だけで、いずれにしても世界を変えようとする立場の人間では、ない。
終わってしまった時代について、こうして好きなことを述べることは容易いけれど、いまの時代に立ち返って考えてみれば、想像力を保ちながらこの世を変えようとするのは無理難題に等しいとも感じる。原発の問題を巡って、この国に再び政治の季節が訪れようとしているのかもしれない(全くそんなことはないかもしれない)けれども、ただ机の前で考えているだけでも、想像力を放棄しなければ一歩も前には進めないと思う瞬間は、ある。

*1:しかし、宮沢賢治を好きだから信用できるというのはやはりおかしな話で、だったらば”貘羅天の切り裂き魔”こと天羽セロニアス時貞も無条件で信用しなければならないことになる。そうじゃないですか。

*2:この変貌には、飛躍を感じなくもない