オスカー・ワオの短く凄まじい人生

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

ああ、ドミニカの男が一度もやらずに死ぬなんて、そんなの自然の法則に反してるよ。
オスカーはため息をついた。だから悩んでるんだよ。

フィクションにのめりこみすぎて、魔法から見放されてしまったのか。魔法から見放されてしまったから、フィクションに逃げこんでしまったのか。あまりにも典型的な「卵が先か、鶏が先か」問題に、いちいち答えを用意する必要はないけれども、魔法から取り残されてしまった人間について、どう考えていくか、という問題は決して他人事で済まされることじゃない。それは他の誰でもない、おれの問題なのだ。
それがどれだけはっきりとした形であらわれているか、個々に違いはあるにしても、あらゆる土地には魔法の力がある。21世紀にもきちんと働いている。魔法はそれに従うものにとっては、実に素晴らしいもので、人生の幸福のほとんど全てをもたらしてくれるものだし、どうにもならない不幸の受け入れ方をも示してくれる。おれは十四歳のころから、この魔法を恐れていきてきた。だってそうだろ、魔法の国で、自分だけが魔法を使えないとしたら、どんな気分がすると思う? もちろん、最低だよ。
マジック・リアリズムが成立するようなお国柄で、自分のリアリズムだけが魔法を信用できない時、あらゆる魔法が自分の敵になる。おれは「オスカー・ワオの短く凄まじい人生」をこうした戦いの困難さを描いた小説として読もうとした。帯にも「マジック・リアリズムとオタク文化が激突する、新世紀アメリカの青春小説」と書いてあるので、この期待はそれほど見当はずれのものじゃなかったはずだ。おれからすれば、オスカーがモテない決定的な要因は、彼がオタクだからでも、彼が肥満体だからでもなく、彼がその土地の魔力から見放されているところにある。どうして、彼は一般的なドミニカの男のように振る舞えないのか? それは当人にはわからない。わかったところで意味はない。とにかく、おれたちは気がついたときにはドミニカ人ではなくなってしまっているのだ。
魔法の源泉は土地にある。ドミニカにはドミニカの、沖縄には沖縄の、北関東には北関東の……それぞれの土地の感覚があって、そこに住む人間の所作はすべて大地につながったものじゃなくてはならない。「地方出身者のくせに、方言で喋れないやつは非リア」という断定は、乱暴ではあるものの、おおよそ正しい。方言もそうだし、地元の踊りが踊れなかったりするのも非常によろしくない。魔法の力を得られなくなってしまう。自分のリズムだけが、大地とつながっていない、ひどくちぐはぐなものになってしまってしまう……。それは、ただ単にモテない、ということ以上の影を青春に落としてしまう。
おれたちは、デカい主語だが気にするな、世界中のどんな物語だって楽しむことができる。中つ国のホビットたちの物語にも、宇宙をさまよう超時空要塞にも、人並み以上に感情移入することができる。けれども、自分の血と肉につながった物語、自分の生まれ育った土地の物語だけは、ほんとうには受け入れることができない、それは文字で書かれた物語ではないからだ。もちろん、その気があれば、自分の歴史を学ぶこともできるだろうが、どうしてもそれはエルフ語を学ぶような態度で行われてしまう。
そこからどうやって自分のための物語を獲得していくか……というあたりが辺境の蛮族たるおれたち、デカい主語だが気にするな、に与えられた試練だと思うんだけれども、まあ、正直に言えば、いままで書いてきたようなこと全て、おれが「オスカー・ワオ」の前半部分から期待していたもので、読後の感想を率直に言うと、まあ、これはそういう話ではなかった。土地の魔力と対抗する力が、結局は血縁によって伝えられる物語でしかないのならば、結局オスカーのオタク趣味にはあんまり意味がないというか、単なる手慰みでしかなかったのね、という気もしてしまう。おれはオスカーには、自らの運命を外の力、オタク趣味でもジョイ・ディヴィジョンでもなんでもいい、別にサブカルチャーでなくたっていい、理由もなく好きになったものの力で乗り越えてほしかったし、それができればさ、もう女にモテなくたってぜんぜん構わないだろ。