忘れられた日本人

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忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守りたちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃで、みんなにいれてやって遊ぶようになった。たいがい雨の日に限って、納屋の中でそういう事をしてはあそうだもんじゃ……。

女ちうものは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者が、めったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃァない。

わしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛だけはだまさだった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出あうと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。牛にだけはうそがつけだった。女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった。

いくらものわかりの悪いおれでも、三十路も近づくこの年齢になってみれば、自分という人間の、本質、らしき、ものを、いやがおうにも理解してしまう。それはつまり、おれは、結局の、ところ、ひと山いくらの人間でしかなかったという厳然たる事実で、塵芥のように生まれ、塵芥のように死んでいく存在、そこに居ても、居なくても、大勢に影響を与えることもなく死んでゆく存在、たとえばここが「三国志」であれば、おれはきっと「民草」呼ばれりされているはずで、「袁術」とか「劉禅」とか、そういう微妙極まりない役さえも与えてもらえないだろう、ということだ。おれにはネームドキャラは無理、だったのだ。

「忘れられた日本人」に登場するのも、おれと同じく名前を持たない人々だ。ただ、ひたすらに畑を耕して、耕して、死ぬ。そんな生き方など、十代のころの自分には、退屈極まりないものとしか思えなかっただろう。けれども、そうした無名の世界のなかから、「土佐源氏」のような、人類にとって普遍的な価値を持つ、永遠の光と呼んでも差し支えのない、見事な語りが生まれてくるのだ。おれはもうそのことを知っている。

話してええかのう。あんたほんとに女にほれたことがありなさるか。まえをなめたことがありなさるか。

土佐源氏によって語られる、牛小屋の情事の美しさといったらどうだろう。人間の基底部分がことごとく露出したその空間には、神話的なビジョンがあふれかえっている。胸を打つ、ほとんど泣きたくなるような、クンニリングス。こんな前戯がはたして他にあっただろうか。おれは知らない。少なくとも人類世界には比肩するものはないのではないかと思う。解説によれば、「土佐源氏」は、その語りのあまりの見事さゆえに、創作ではないかと疑われることもあったようだ。その気持ちはわかる、と解説文には書いてあった。おれだってそう思う。「土佐源氏」のクンニリングスは、それほどに永遠/普遍に近づいている。こんな才人が、四国の片田舎の、乞食の中にいるもんだろうか? そんな疑問はもっともなものだとは思うけれど、土佐源氏はきっとそこにいたのだ。これが、いよいよ最後の希望だ。土の中からこんな語りが生まれうるなら、おれの中からも、いつかは……。会社で空しく電卓をはじきつづけるだけの生活の中からも、いつかは……。いつかきっと、何かが…。