エヴァンゲリオン殺人事件

この度の新しい映画を鑑賞して、今更のように思い知らされたのは、エヴァンゲリオンはほんとうにひどいな、救いようがないな、ということだった。
我が眼を疑うほどダサい戦艦が空を飛び、船員たちが「ヨーソロー!」と唱和する。いつからエヴァはワンピースになってしまったのか!?
そう呟いてみても、むなしいだけだ。何もかもが狂ってしまった世界で、シンジくんはよく戦った。ベストを尽くした。
だいたい、心臓が停止するほどのビーム攻撃を受け、手のひらから肘までを刺し貫かれ、戦友を殺めさせられ、片腕を切断され、生皮を剥がされて、それでも戦うことのできる中学生なんて、世界中どこを探したっているはずがないのだ。いくらアニメとはいえ、あまりにも苛酷な状況をシンジくんは戦い抜いてしまった、そんな義理は何一つなかったのに……。
誰よりも勇敢だったシンジくんに対して、エヴァ世界の大人たちは何をしたというのだろう?
誰ひとりとして大人としての義務を果たそうとせず、子供を守ろうとせず、無理矢理に戦わせた少年兵を戦犯のように扱って、いっちょまえに罰だけは下そうとする。
ほんとうにひどい、嫌な世界だ。
聞くところによると、エヴァの世界はループしていて、同じ世界が何度も繰り返されていると主張する人々がいるらしい。
僕はその考えには同意できない。こんなにもいびつで、狂った世界は、ただ一度きり存在するだけでも神様がお許しになるはずがないのだし、ましてそれが繰り返されているとなれば、これはまったく道理に反する、あってはならないことで、自然の摂理が歪められているというほかない。
エヴァンゲリオンの世界は、明らかに、何者かによって殺されている。
もしも、僕が名探偵であったなら、鮮やかで、アクロバティックな論理を駆使して、最短ルートで真実にたどりついてみせるところなのだが、やはりそうはいかない。僕はバカンスに訪れた雪山のロッジで偶然にも事件に巻き込まれた平凡なサラリーマンに過ぎない。サラリーマンに渡された武器はたったひとつしかない。
「常識」だ。
常識的に考えて、殺人事件の犯人は、「被害者で死んだことで最も大きな利益を得た人間」に決っている。
エヴァンゲリオンの世界がループしていることで得をする人間は、どう考えてもたったひとりしかいない。

つまりは、碇ゲンドウという、作中で最も幼稚で、救いようのない、ゲスな男が、エヴァンゲリオンの犯人である。
彼には明確な動機がある。彼は、死んだ妻に再会したい、ただそれだけのために、エヴァンゲリオンを何度も繰り返しているのだ。まったくくだらない男だ。思うに、作中で人類補完計画と言われているものが、世界をリスタートするためのスイッチなのだろう。何度世界を繰り返そうと、運命はゲンドウから妻を奪ってしまうのだが、ゲンドウは人間としてはクズでも、リリンの王と言われるほどハイスペックな男なので、スイッチを押し損ねることだけは絶対にない。彼は何が起ころうとも必ずスイッチを押す。理不尽な世界は永遠にループしつづけてしまう。
彼にとっては、妻が死んだ後の人生は、スイッチを押すためだけに存在する、魂の死んだ時間なので、彼はスイッチを押すことのほかにはまったくやる気がない。実の息子にもまるで興味がないし、父親の義務を果たすつもりもない。
「全ては心の中」と宣うわりに、息子の心に母親の姿を与えるための写真すら残さないのは、ゲンドウがいう「心」には、自分以外の人間はまったく勘定されていないからだ。
そんな父親を持つのは、とてつもなく不幸なことだ。範馬勇次郎を父とするほうが、よほどマシといえるほどだ。
勇次郎もたいがい理不尽な父親だけれども、あらゆる息子には父親に挑戦する権利があり、父親にはそれに応える義務があるとした刃牙の言葉を、ひとまずは受け止めたといっていいだろう。
エゴイズムの頂点のように描かれた勇次郎が、ひどく不器用に息子を愛していたことを、読者は認めないわけにいかない。
地震を止める。歩くだけでGPSが狂う。生まれた瞬間に人類の脅威となり、各国の核開発を決意させる。
とてつもなく大きく膨れあがった、範馬親子の物語が、最終的には味噌汁をつくるつくらないといった極めて小さな戦いに落ち着いてしまったことに、がっかりした読者は僕だけだったとはまるで思えないんだけど、それでもよく考えてみれば、これはこれでテーマには誠実に向かいあったエンディングであったように思う。
範馬親子の物語はあまりにも長くつづいたので、刃牙の目的はずいぶんブレてしまった。地上最強を目指していたはずの刃牙は、親父が地上最弱なら地上で2番目に弱くても構わないということになってしまったし、親父の病気を治すために戦うのだと述べたこともあった。刃牙のほんとうの目的が何であったかはともかく、少なくとも刃牙は父親の病気を治療することには見事成功してみせた。読者が見るかぎりでは、味噌汁をつくるずっと前から、勇次郎の病気は治っていた。
食事における不作法を咎められた刃牙が、そんなことをおれは何一つ教わっていない、あんたから教わったのは強くあることだけだ、と言い返したとき、勇次郎は明らかに弱っていた。己の過ちを悔いるような表情をみせていた。
言葉を選べば、勇次郎はほんとうにテーブルマナーを息子にレクチャーしてくれたのではないか。
そう思わせるほどに、勇次郎はただの父親だった。

ゲンドウは地上最強の生物こと範馬勇次郎よりもはるかにやっかいな父親だ。
彼をまっとうな大人にするために、シンジくんがどれほどの犠牲を払わなければならないか。
何しろ彼は息子と勝負するつもりもない。男の戦いでシンジくんがブチきれたとき、ゲンドウにはその怒りを受け止める義務があったのに、果たさなかった。
信じられないほど卑怯な父親だ。
それを考えたら、シンジくんにとっては、父親なんてさっぱり見限ってしまって、父も子も関係ない世界で生きていくのがいちばん良いのだろう。けれども、ゲンドウは世界の狂気と分かちがたく結びついているので、エヴァンゲリオン殺人事件を解決するには、やはり息子であるシンジくんが、父親であるゲンドウを説得するほか方法がない。
死んだ人間には二度と会えないこと、息子であるシンジと向き合うことのほかに亡き妻に近づく方法はないのだということ、こうしたごく当たり前の事柄を、父親であるゲンドウにきっちり伝えなくてはならない。
堂々巡りの家族の問題に決着をつけ、因業のない、新しい世界で、他人との関係を築いていくなくちゃならない。
そう考えると、やはりエヴァンゲリオンのラストシーンは、旧劇場版の波打ち際でしかありえないことが理解できる。
もはや、エヴァンゲリオンという物語に謎は何一つ残されていない。
Qで反復された波打ち際は、おそらく次の映画でも繰り返し描かれるのだろうし、今後エヴァンゲリオンが何度語り直されたとしても、やはりラストシーンはあの波打ち際ではなくてはならないのだろう。
そう思えたことが、今回の新しいエヴァンゲリオンを観ることで得た、いちばんの収穫だったように思う。