祖父の孫の長い旅

これまでのあらすじ

左翼だったはずの祖父は、日の丸大好きっ子だった―
その真意を確かめるべく、僕は祖父の言葉を探す旅に出た。

祖父の長い旅
祖父の長い長い旅

1982年。
それは沖縄が日本に復帰して十年が経った年であると同時に、この文章を書いている人間が生まれた年でもある。祖父は、初孫である僕の誕生をこのうえなく喜んだというのだけれども、同じ年に祖父がのこした文章は、これまでない苦痛と混乱に満ちていた。
「われわれは嘘つきだ」
「沖縄の海が滅びるというのなら、それでもいい」
「私は無念だった。今でも夢にまでみる」
それが国会図書館にのこされた祖父の最後の言葉だったのだけど、正直にいえば、僕にはそれほどよい文章には思えなかった。強すぎる言葉は、つながりを欠いていて、全てが唐突に突きつけられているように感じられる。ブロガーの書く文章に似ているな、と思った。特に、はてな育ちで、Yを頭文字に持つブロガーにそっくりだ。けれども、文章に込められた思いの強さは、そんなインチキブロガーとは比べ物にならない。
祖父が自分のことをどう思っていたかは分からない。でも、僕は、孫として、ブロガーとして、祖父を誇りに思う。その言葉は、ほんものの後悔から発せられたもので、ほんものの後悔は、ほんとうに戦った人間にしか許されないものだからだ。
傷だらけの祖父の言葉。それにひきかえ、僕の言葉は未だほとんど無傷のままだ。ただひとつのかすり傷は、蜘蛛の糸のように細く、薄く、よく目を凝らさなければみることさえできない。それは戦いでついたものでさえなかった。僕は一度も戦ったことがないのだから、当然のことだ。



2002年。
その年に起きたこと、みじめなかすり傷のこと。それらを話す前に、まず僕は謝ったほうがいいのかもしれない。

大統領と握手

ここで僕が書いたことは、全くの嘘なのだ。
事実か否かというレベルで話をするならば、九割九分は実際に起きた出来事に基いたものではある。僕が大統領を殴らなかったのも、手をつねることさえできなかったのも、彼と握手をしてしまったのも、全てほんとうのことだ。でも、もっとも大切な一分が嘘なのだから、やはりそれは真実とはとうてい言い難い。あの文章では、僕は大統領を殴る―そこまで行かなくとも、手をつねるというところまでは、本気でやるつもりであったかのように書かれている。それこそが嘘なのだ。僕はただ頭の中で妄想を弄んでいただけで、それを頭の外側に解き放つつもりなど、一切なかった。一切なかったのに、あたかもそれをやるつもりがあるかのように書いたことは、恥ずべきことだった。大して悔やんでもいないのに、悔やんでいるかのように書いたことは、恥ずべきことだった。
あの日、あの場所に、集められた高校生に、大統領を殴ることのできる胆力を持ったやつなんて、ひとりもいなかった。
―だから、僕は悪くない。たとえ、悪かったのだとしても、僕だけが悪いわけじゃない。
結局は、それが僕の本音なのだ。後悔なんか、しちゃいない。傷と呼べるようなものじゃない。戦わなかったものは、まともに傷を負うこともできない。それなのに、仰々しく痛がってみせ、自らを責めるふりをして愉しんで、気色の悪い自意識自慰行為に耽っていたのは、ほんとうに恥ずべきことだった。
それでも、ときどきは思うことがある。
何もできなかったことはしかたがないとしても、何も握手をする必要はなかった。何もできなかったとしても、握手をしない、それくらいのことはできたはずだ。
ただ、黙って、睨みつける。どんな臆病者にだって、それくらいのことはできたはずだ。なぜ、できたはずのことをやらなかったのだろう?
言い訳染みたことをまた書いてしまうけれど、あの場所にいたのは僕ひとりじゃない。沖縄中から集められた高校生たちがいたんだ。彼らはどうして、馬鹿みたいに握手なんてしまったんだ?
ほんとうに馬鹿だったからかもしれない、と思う。馬鹿だから、自分たちが被征服民であるということをうっかり忘れてしまっていたのかもしれない。沖縄の高校生たちは、疑いなく自分たちを日本人だと感じていたから、沖縄が米国の占領下に置かれつづけていることに、どこか鈍感になってしまっていたのかもしれない。鈍感だから、何の苦痛もなく、彼らは自らの主人に膝まづいてしまったのかもしれない。何なら靴だって喜んで舐めてみせたかもしれない。

……いや、他人のせいにするのはよそう。普段は、「主語がデカくて何が悪い!」と信じている僕だけれども、ここは慎重に切り分けるべきところだ。少なくとも、僕は、僕のアイデンティティには、沖縄人としての部分はほとんど死に絶えてしまっていて、九割九分は、日本人になってしまっている。僕の中の日本人。もちろん、それが偽物であり、「思い込み」でしかないということは、祖父に言われるまでもなく重々承知のことだ。しかし、偽物だろうと、思い込みだろうと、それが確かに自分なのだ。
「日本人だと思いこんでおった。それだけですよ」
そう言い切った祖父は、十年後に「われわれは嘘つきだ」と書いた。その言葉自体は、憲法と現実の乖離について、「憲法を嘘にしてはいけない」という趣旨で述べたものだったのだけれども、ここで引っかかってしまうのは、「われわれ」が指し示すものが、誰かということだ。まるで現代文の読解問題のようだけれども、この問題は小学生でも解けるほど簡単だった。というのも、祖父は文中ではっきり「われわれ日本国民」と書いていたからだ。簡単なはずのこの問題を難解にしているのは、「日本人だと思い込んでおった」という言葉との不整合で、たぶん僕にはこの謎を解き明かすことはできないだろう。きっと、祖父自身にも分からなかったんじゃあないだろうか。そう思うのは、僕もまた、祖父と同じような混乱にあるからだ。
今になってこんなことを書くのは、どうかと思うけれど、もともと、祖父が何者だろうと、僕にとってそんなことは大した問題ではなかった。僕がほんとうに解らないのは、僕のことだ。僕が何者なのかってことだ。
僕は方言を使えない。方言を美しいとも感じない。日本語で書かれた本を読み、日本語のテレビで笑い、日本語でしか物を考えることができない。そんな人間を、沖縄人と呼ぶことはできない。かといって、僕は日本人だと躊躇なく言い切ることもできはしない。それじゃあ、おれはいったい誰なんだ!?
「おれたちは何人でもねえ!だからこそ、この海で最も自由な人間なんだ!おれたちこそが海賊王なんだ!」
同郷の友人とそんな話で盛り上がった夜もあった。十代の終わりのころだ。でも、そのような無根拠な自信はとうに僕のもとを去ってしまった。僕はもう三十路なのだ。あとに残されたのは、自分がどこから来たかもわからないような迷子の三十歳児だけだ。迷子に出来るのは、せいぜいもときた道を丁寧に引き返すことくらいで、だからこそ僕は祖父の言葉を求めたのだ。しかし、その祖父もまた迷子だった。どうしていいのかわからなくなる。



そんなわけで、僕は何もかもを棚上げにしてしまう。自分のルーツがなんであれ、腹が減れば飯を喰わなければならないわけだし、食い扶持を稼ぐことだけ考えていたほうがよっぽど得だろう? という内なる声をいちいちもっともだと感じてしまえば、これ以上なにかを掘り下げて考える気力も湧いてこない。そうして、考えることを止めたまま日々の生活に埋もれてしまえば、それこそあっというまに百年が過ぎ、アンパンマンのオープニングテーマのような人生も、終わる。
意に沿わぬ仕事に追われながら、あたらしい椅子を買ってみたり、横暴な上司に腹をたて、はじめての酒に挑戦し、愚にもつかないブログを書きつつ、知らない街を歩いているうちに、それなり楽しくそれなりに退屈な日々が過ぎていくのだろう。あるいは、もっと悲惨な、地べたに這いつくばり全身垢にまみれながら生きのびる未来こそが僕にはお似合いなのかもしれない。
いずれにせよ、月日は巡り、僕が老人か死体になりはてたころには、祖父が僕にのこしてくれた言葉も、僕のしみったれた人生がかき消してしまっているだろう。僕に孫がいたとしても、彼は誰に歴史を尋ねることもできないはずだ。孫の代まで待たずとも、このままあと三十年も経てば、沖縄人というひとびとは地上から消え去っているような気もするが、それが自分にとってどういう意味を持つことなのか、全てを棚上げにしてしまった僕には判断することができないし、その必要も、責任すらもないのだと、誰よりも先に滅んでしまった僕の中の沖縄人が言う。