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続・剛力天才論

一昨日の私はどうかしていた。

剛力彩芽、その顔が天才だ!
「剛力さんの魅力を理解せぬ蛮族を、私が啓蒙しなければならない!」
今となっては信じられないことだが、どうやら私は本気でそう考えていたようなのだ。
単に馬鹿げているだけでなく、あまりにも傲慢すぎた。私は、ほとんど宣教師のような心持ちだったように思う。これが私のミッションなのだ。そんな風に感じてもいた。
ところが、実際に起きたことは、まるで逆だった。教えられたのは私の方だったのだ。
ブログにつけられたブックマークには、傾聴に値する発言がいくつもあった。

id:ohnosakiko
芸能
顔のことばかり言われるけど、首から肩のラインがとてもきれい。長い茎の上にバラの蕾が載ってるみたい/個人的には懐かしいタイプの顔。太い眉と吊り気味の目は中原淳一の描いた少女に似ている。どこか昭和な雰囲気

このコメントを読んで、私は打ちのめされた……。ランチパックのCMから感じられる、剛力さんの肩の骨のかろやかさ、しなやかさについて、私は何ひとつ触れていなかったことに気がついたのだ。
言い忘れたというわけではない。剛力さんの首や肩、美しい骨格に、私は確かに魅せられていたのに、その感動は意識の奥底に沈められていて、認識することすらできなかったのだ。まったく不覚としか言いようがない。
よくよく自分の心の内を探ってみれば、確かに私は、剛力さんの顔よりもずっと強く首や肩に惹かれていたのだ。自分の心のことなのに、ひとに言われるまでその動きをつかむことができないというのは、いったいどういうことなのだろう?
私が教えられたのは、「どうしてこんなにも剛力さんは魅力的なのか?」というようなちっぽけな理屈ではなかった。
私が教えられたのは、私じしんの心だった。自分がどれだけ剛力さんを好きなのか、ということだった。自分でも、自分がこんなにも剛力さんが好きだとは知らなかった。
私は、auのcmに出演する剛力さんが好きだ。「飛雄馬クン」「花形クン」と呼びかける、剛力さんの発音が好きだ。私の故郷では、大して親しくなくともファーストネームを呼び捨てにする風習があったので、剛力さんのように軽やかに「ヨグ原クン」と呼びかけてくれる女子が私の青春に登場することはついぞなかった。同じクラスに居ると想像するだけで、せつなくて死にたくなる。それが一級のアイドルの条件なら、剛力さんはそれを立派に満たしている。
よくよく思い返してみれば、私ははじめから剛力さんのことが好きだった。好きだったのに、なかなかそのことを認めることができなかったのは、出会い方に少しばかり問題があったからだろう。
たしかあれはミスタードーナツのCMだったように思う。佐藤隆太を「アニキ」と呼ぶ彼女の仕草は、男きょうだいで育った私にとっては大変に新鮮なものだった。私はすぐに彼女の名前を調べたのだが、私の検索能力はいつだって貧弱で、私は彼女の名前を岡本怜だと勘違いして覚えてしまったのである。
剛力彩芽」という名前を認識したのは、積水ハウスのCMだったろうか。
そのとき、私は「変った顔の女の子だなあ。中学のころの同級生の男子(イケてない)に似ているぞ」と思ってしまい、どちらかといえばややネガティブな印象から剛力さんの名前を覚えてしまった。
事態は複雑化した。剛力さんは私のなかで二つに分裂してしまったのだ。「岡本怜」の名を持つ、良い剛力。「剛力彩芽」の名を持つ、悪い剛力。
精神分析学でいうところの良い乳房と悪い乳房のようにバラバラになった私の心の剛力さんは、良い剛力さんが岡本怜ではなく剛力さんであることに気がついたあとでも、何となく統合されないまま残ってしまった。
剛力さんを好きだと思うじしんの心を、なかなかうまく捉まえることができなかったのは、おそらくはそうした混乱によるものだったのだろう。
私は、剛力さんのことが好きだ。はっきり口に出すことができた今、私の心にいたふたりの剛力さんは完全に重なりあい、よりいっそう強く輝いている。
この世界には、良い剛力も悪い剛力もいない。剛力さんは、見る度に姿を変える美のプリズムであること。明日の空の色はけして今日と同じではないけれど、それでも空は空であるように、剛力さんは剛力さんであること。
それらに気がついた今、私の中の剛力さんは、神様と融合したピッコロさんのように、最強無敵な状態になっている。