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マンガのグラビア不要論

マンガ

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かつての私は、頑迷なるグラビア不要論者であった。マンガ雑誌を買いはじめたころの私は、まだ幼く、性的に未熟だったので、水着姿で巻頭を彩るアイドルたちに心を動かされることは、まったくといっていいほどなかった。それに、幼い私は漫画に対して今よりもっと真摯に向き合っていたので、マンガ雑誌の巻頭を、マンガ以外のものが占めているということが、何とも不健全で、不純であるように思われたのだ。そんなものよりも、好きなあのマンガをカラーで読みたい。そんな気持ちであった。
第二次性徴を迎えたあとも、私のグラビアに対する態度は、ごく冷淡なものだったけれど、その理由はかつてとは少しばかり違っていた。マグマのように湧き上がる性欲は、私をすっかり即物的な人間に変えてしまっており、マンガ雑誌のグラビアではまったく物足りないというのが本音だったのだ。ハードコアにあらずはポルノにあらず。それが、十代の私が掲げたスローガンだった。

この街でいちばん下品なポルノを持ってこい! 
水着!? 
そんなもののどこがいいんだ?
いちばん肝心なところが、まるでみえないじゃないか?

そんな風に嘯いていた私も、一年毎に確実に老いてゆく。かつてに比べると、性欲などもはやあってないようなものだ。最近はよく子供のころのことを思い出す。キャンプに行くと、父親からいつも薪を集めることを命じられた。我が家では、薪を拾うのは子供の仕事だった。種火にかざすだけでパッと燃え上がるような、乾いた薪を私は探す。父親に、僕だってちゃんとやれるんだということをみてもらいたかった。けれども、キャンプ場には手ごろな薪がまるで落ちていない。私は、乾いた薪を求めて森の奥へと踏み入っていく。どれだけ歩いても乾いた薪は見つからない。半ば腐りかけ、じくじくと湿ったものばかりだ。まるで森のすべてが腐っているようだ、と私は思う。そうして道に迷っているうちに、私は三十代になっていて、いつか迷いこんだ森そのものになっている。私は腐り、湿っている。この土地は、焚き火を起こすにはまるで適していない。
皮肉なことに、こうなってはじめて、私はマンガ雑誌のグラビアの良さが理解できるようになったのだ。強い炎が発する光が、かえって目を眩ませてしまうことはよくある話で、若かりし私はそのせいで美しいものにまるで興味が持てなかった。汚れたものや、ゆがんだものにより強い関心をもっていた。星を眺めてみても、その美しさがあまりにも自分と関係が無いために、何だかさみしくなってしまっていた。私は、何を見ても自分のことばかり考えていた。好きな人ができたときも、その人のなかに自分に似たところばかり探していた。自分でもバカみたいだと思うけれど、実際にバカだったのだから、しかたがない。山や星をみる。もちろん美しいとは思うのだけど、それ以上に寂しくなった。どれだけ星が美しくとも、そこに自分はいない。自分には一切関係がない。そのことが、たまらなく寂しかった。
不思議なことに、今では、それらが自分と関わりがないことに、かえって喜びを感じるようになった。自分が生まれるまえから輝いていて、死んだあともきっとそこにあるつづけるはずの光をみていると、何だかとても安心してしまう。星の美しさは、私の感情をはるかに超えたところに存在していて、一切の解釈を求めていない。私はただそれを見ることしかできない。その星の光を私がみる必要はない。他の誰がみたって変わらない。誰もみていなくたって構わない。そう思うと、我利我利に凝り固まった「私」がそっと解きほぐされていくような安堵を感じるのだ。私は、マンガ雑誌のグラビアにも同じことを感じている。もはやそれは性的な対象ではない。星、山、波濤、夕暮れ。グラビアは、それらと全く同じように、美しい。
私は「突撃隊」のことを思い出す。ノルウェイの森でワタナベくんのルームメイトだった彼のことだ。鹿のセーターを着た彼は、地図の勉強をするために上京してきたのだった。朴訥とした彼は、「あいつ運河の写真でオナニーするんじゃないの?」などという愛のない陰口を叩かれていた。小説のなかではそれはデマだったんだけど、今の私にとってみれば、運河でオナニーして何が悪い!という思いだし、全く同じ理屈で、グラビアをみて心を休めることもぜんぜん不思議なことじゃないと思う次第である。

日南響子 写真集 『 mau 』

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