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カフェでよくかかっているJ−POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生/渋谷直角

漫画

カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生
帯には「誰かをバカにするマンガと思ったら大間違いだ!」という久保ミツロウ先生の力強いお言葉があるし、著者である渋谷直角氏はあとがきで「彼らに対して、こちらの何かの一つの価値観や上から目線をもって小馬鹿にしたり、それじゃダメだ、と断定して描いているのではなく」とはっきりと記していて、それはけっして嘘ではないのだろうけども、この作品を読んで感じたのは、やはり強烈な悪意、だった。小さな世界でもがくサブカル民を単に馬鹿にするのではなく、ある種の愛情をもって描いていることは、特攻の拓の天羽セロニアス時貞に匹敵するほど感動的な宮沢賢治使いをみても明らかなのだけど、散りばめられた固有名詞の群れからは、それを上回るほどの悪意を感じてしまう。
バンプオブチキンと空の写真ばかりアップしているブロガーの恋」や「ダウンタウン以外のお笑い芸人を基本認めていないお笑いマニアの楽園」は、そもそもタイトルに固有名詞が入っているし、「カフェでよく〜」のヒロインの部屋に床置きされているレコードには小さな文字で「くるり TEAMROCK」と描かれていて、CDの棚には「土岐麻子」や「シンバルス」が並んでいる。おまけに、PVに登場するくるみのクッキーは西光亭。作中には、いわゆるサブカル的なアイテムがずらりと羅列されていて、それらはつまり作中に登場するサブカル民たちの人格そのものだ。
「カフェでよく〜」からは、そのありがちな感じへの嘲笑、というよりもむしろ、固有名詞を寄せ集めただけで説明できてしまうような軽薄な人間性への憎悪が感じられて、真夏なのに読んでいて背筋が寒くなった。固有名詞の羅列で人間性を表現する、というと、面影ラッキーホールの「パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた…夏」を思い出すけれど、DQNを表現する固有名詞として登場する「代紋TAKE2」や「ミナミの帝王」を「小沢健二」だの「ピチカート・ファイブ」だの、に置きかえるだけでサブカルになるのなら、DQNもサブカルもオタクもヤンキーも大差がなく、この世界に生きる誰もがひどく虚ろな記号に囚われて生きているようにさえ思えてくる。
空の写真ばかりアップするブロガーの端くれとしては、この本に込められた悪意に傷つけられて然るべきだったのだが、サラリーマン生活によって心を失ったおれには、もはや揶揄されて傷つくような固有名詞などはひとつも残っていなかったので、まったくの無傷で本を閉じることができた。心がないまま生きるってのも、それはそれで便利なものだ。ところで、代紋TAKE2のあのラストは、メインの読者層からはどう受け止められているのだろうか? 心を失ったいまとなっては、気になるのはせいぜいそれくらいのことだ。