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映画「風立ちぬ」と、なかったことにされた人生

映画

国民的作家、なんて大仰な呼び方が許されるのは、この国では村上春樹宮崎駿くらいのものだろう。その国民的作家の、最後の作品(?)になった「風立ちぬ」を、9月9日の時点で788万人が観たらしい。
http://mantan-web.jp/2013/09/10/20130910dog00m200015000c.html
それで、恥を偲んで告白すると、おれはこの映画をみて、けっこうひどい勘違いをしてしまっていたんだよね。
風立ちぬ」が、堀越二郎の半生と、堀辰雄の小説をミックスしたものであることは知っていたけれど、それは当然、堀越二郎の人生に堀辰雄の小説と重なるものがあるからだと思っていたのだ。
wikipeniapediaで見たら、全然違うじゃん。堀辰雄堀越二郎の奥さん、長生きしてるじゃん。
風立ちぬ」を観た788万人の中に、おれくらい粗忽な人間がどれくらいいたか分からないが、けっこう馬鹿にならない数の観客がおれと同じような勘違いをしたのではないか、と思う。
少なく見積もっても、まあ百万人はいるだろう。
で、ジブリ作品の常として、「風立ちぬ」もきっと何度もTV放映されることだろうから、その度に勘違いした奴も増えていくはずで、十年も経てばその数は一千万人を超えているかもしれない。
恐ろしいことだ。これから、未来の日本人が、堀越二郎の奥さんを思うとき、心に浮かぶのは、宮崎駿の菜穂子なのだ。
これはあなた、ほんとうの奥さんの立場からしたら、たまったものではありませんよ。
名前も境遇も全く異なる女が、自分の旦那の妻におさまっていて、その不貞を日本中の人間が許しているのだぜ。
こんな壮大なNTRが他にありますか。
もちろん、死ねば忘れられるのは、人の常だけれども、死んだあとに、自分の存在がアニメキャラにとって代わられる、なんてことはそうそうあるもんじゃない。
もちろん、「風立ちぬ」の堀越二郎だって、その正体は、宮崎駿で、庵野秀明で、クリエイターの化身なのだから、現実の堀越二郎とは違っているのだけど、それでも彼は映画の中でも堀越二郎の名を失ってはいないし、九試単戦や零戦を設計した己の業績が奪われることもない。けれども、二郎のほんとうの奥さんは、名前も、存在も、何もかも、菜穂子に奪われてしまうのだ。
恐ろしいことだ。
もちろん、これは「風立ちぬ」に限ったことではない。もともと、生きている人間なら誰にでも、死んでしまった人間を好きに語って構わない、という特権が与えられている。程度の差はあれ、誰だって同じことをする。あの人はあんな人だった、こんな人だった……。葬式で交わされる言葉が、故人を正確に言い表すなんてことがあるはずもない。おれにだって、ろくに話したこともない祖父の人生を、好き勝手に解釈した文章を書いてしまった前科があったりもする。だから、これは程度の問題にしかすぎない。誰でもやっているようなことを、宮崎駿がやると、国民の記憶が丸ごと書き換えられるような事態になってしまう。ただそれだけのことなのだ。ただそれだけのことが、たしかにこの世に生きていたはずの人を歴史から消し去ってしまうのだ。

このような危険にも関わらず、堀越二郎の遺族は、宮崎監督の「風立ちぬ」にOKを出したのだという。だからつまり、でいままでぐだぐだ述べてきたようなことは全くの杞憂に過ぎなかったわけだけれども、おれには遺族が宮崎監督に許可を与えた理由がどうしてもわからなかった。だって、自分の母親が知らぬうちに薄幸の美少女にすりかえられてしまうのだよ。認めることができるはずがない。それでも、小一時間ほどうんうんと頭をひねって考えた結果、これは遺族の方の自信のあらわれではないかと思った。宮崎監督のイメージが母親の姿を覆い隠してしまって、世間の人々がスクリーンに写るまぼろしだけを信じるようになったとしても、自分だけはほんものの母親のことを知っているのだ、という自信。それは、もしかすると、自信というよりも愛と呼ぶべきものだったのかもしれないけれど、サラリーマン生活で心を失ってしまったおれに、「愛」なんて大仰な言葉をつかう資格があるはずもないのだから、いまはただ、スクリーンに映しだされる菜穂子さんの姿を、ぼんやりと見つめることしかできない。