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「サザエさん」は、誰がみた夢なのか?

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長かった夏が終わり、秋が来る。やがては冬が訪れる。季節は確かに巡りゆくのに、時間は循環したまま、永遠にそこに留まっていて、その世界の住人は誰ひとりとして年をとらない。死ぬものもいない。俗に「サザエさん時空」なんて呼ばれたりするこの時間感覚は、よく考えてみると相当におかしいのだけど、何しろ「サザエさん」といえば、僕が物心つくよりずっと前から放映されている国民的アニメなので、「それはもとよりそうしたもの」として受け止めていて、「なぜ、サザエさんは年をとらないのか?」なんてことを考えたことは一度もなかった。でも、この時間感覚は何かに似ているんだよなあ……そんな風に思いながらも、生活のなかで「サザエさん」のことを真剣に考える瞬間なんてそうあるものじゃないので、僕にとって、サザエさんが年をとらない理由は、謎とすらも意識できない漠然とした謎でありつづけていた。生まれ育った家を出て、ひとり暮らしをして、そろそろ「家庭」と呼ばれるものを自分で作らなきゃいけない。僕が「サザエさん」の謎を解き明かしたのは、人生がそんな時期にさしかかったころだった。
なぜ、サザエさんは年をとらないのか?
その理由が、わかりすぎるほどにわかった。
僕が生まれ育った家のことを思い出すとき、いつでも僕は十歳で、弟は七歳と四歳、父と母は三十代半ば。驚くべきことに、今の自分より少し年上なだけで、ほぼ同年代といっていい。家はまだ建てたばかりで、ローンがたっぷり残っている。バブルの余波で、金利が高い。庭には弟が拾ってきた犬がいる。記憶の中には四季がある。夏には犬を海に連れて行く。犬かきを見てみたくて、僕ら兄弟は犬を波打ち際に放り投げる。犬は嫌がる。秋になると、母が柿を切ってくれる。渋いものも混じっている。思い出の中では、時間は流れない。僕たち兄弟は成長しない。誰も、どこにもいかない。
実際には、長男である僕がいちばん先に家を出た。二番目の弟も就職で大阪に出ることになった。一番下の弟は、どこか小さな島の通信インフラを整える仕事をするらしい。彼も家を出ることになるのかもしれない。家族が、みんないっしょで暮らしている時間は、あんがい短いものだ。フルメンバーがそろっているのは、もしかすると十年もないんじゃないか。僕が、家族のことを思い出すとき、なぜか十歳の自分になっているように、父や母も、遠い過去に家族の原型をみているのだろうか? 彼らの思う家族の風景の中で、僕は何歳になっているだろうか? こんなことは、あまり考えたくはないことだ。考えると、なぜだか泣きたいような気持ちになる。
時間は逆さに戻すことができないけれど、思い出のなかで、時間を留めていくことはできる。おそらく、「サザエさん」もそうなのだ。「サザエさん」の世界の時間が止まっているように見えるのは、あれが遠い未来にみた夢、あるいは思い出だからなのだろう。どんな家族でも、いつまでもひとつのかたちでありつづけるわけじゃない。僕の家族がそうだったように、磯野家も、遠からずその姿を変えてゆく。カツオもいずれは家を出る。彼がいなくなった磯野家はきっと寂しくなるだろうが、サザエとカツオの姉弟は、家族内の役割がだいぶ被っているので、どちらか一方がいれば、磯野家は磯野家でありつづけることができるだろう。とはいえ、サザエも、いまでも磯野家に留まっているとは限らない。先週、彼女は林芙美子の放浪記を読んでいた。今の時代からみると、あまり気がつかないことだけど、おそらくサザエは、新しい時代の女性、自由を愛する女性としての側面をたぶんに持ったキャラクターなのだ。磯野家を飛び出して生きてゆくという未来だって十分にありえることだろうし、少なくとも彼女はそうした夢想を楽しんだことがあるはずだ。根拠はないが、僕の直感は、それを確定的に明らかだといっている。
根拠のない話を重ねて申し訳ないけれど、「サザエさん」の磯野家は、おそらくは、カツオやサザエの夢ではない。磯野家を離れた彼らが、昔を懐かしむことはあるだろうけども、彼らは、あれほど長い間、過去の夢想に浸っているような人間ではない。彼らは過去よりも、「いま」「このとき」を肯定して生きるタイプの人間だ。マスオの夢でもないだろう。マスオは磯野家に夢などみていない。そう考えていくと、「サザエさん」が誰がみた夢であるか、その答えにもだいたいの見当がついてくる。本命・波平、対抗・ワカメ。そんなところだろう。結局のところ、サザエさんで描かれる磯野家にいちばん救われているのは波平だし、ワカメは性格的にいつまでも昔のことばかり考えていそうだ。たった一年の家族の時間を、あれほど長く、綿密に思い出してゆく情熱は、かつての僕にはまるで理解できないことだったけれど、もはやそれは遠い世界ではなくなってしまった。いずれ僕にも子供ができるだろう。成長した彼は、いつか僕の世界から出てゆくはずだ。そのとき、きっと僕の心には、「サザエさん」のような永遠の一年があるのだろう。きっとそれは寂しいことなのだろうけれど、受け入れなくてはいけない未来であることには違いない。きっと、毎週日曜に流れる「サザエさん」は、いつかくる寂しさへの予行演習なのだ。だからそう、もう僕は「サザエさん」を一話たりとも見逃すわけにはいかないんだ。