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ミシンを壊せ!

高校生くらいのころ、世界史を勉強しているとき、自分が神様になったような勘違いをすることがあった。何しろ、世界史の教科書をパラパラとめくるだけで、千年、二千年という単位で人類を眺めることになるし、そういう立場から人類をみていると、やっぱ人類ってどうしようもないアホばっかだな、と思ってしまう。

ラダイト運動って習ったじゃないですか。産業革命で仕事を奪われた労働者が織機とかミシンを打ち壊した運動。これなんかもう、労働者たちがアホにしか見えなかった。いくら目先でミシンを一台や二台壊したところで、機械化の流れは変わらないわけだし、ミシンを壊すよりも、ミシンの操作に習熟していった方がよっぽど労働者の得になるよね、なんてことを考えていた。ほんとうに浅はかだったと思う。

でも、まあ、そんな浅はかな自分にも、試しの機会がやってくる。僕が生きている時代にも、いよいよ新しいミシンが投入されることになった。新しいミシンの実力は恐るべきもので、人類最強の棋士囲碁を打って圧勝できるほどの知性を持っているのだという。宇宙のすべてを再現できると謳われた究極のゲーム、囲碁で人類に圧勝できるということは、この宇宙において、人類にできて、人工知能にできないことは何一つないということだ。僕は、自分の仕事で、人工知能にできないものはあるだろうかと考えてみた。結論は、すぐに出た。なくはない。でも、ほとんどない。ということはつまり、僕の仕事はない、なくなってしまうということだ。

例えば、僕は経理で働いているんだけど、経理業務には、機械には判断の難しい繊細微妙なものもある。けれども、繊細微妙な判断を下す人間がたくさんいる必要はなくって、機械にすら判断できないことを判断する能力と責任を持った人が一人いればそれで事足りてしまう。監査する側も同じことで、通りいっぺんのことは全部人工知能にやらせてしまって、本当に高度な判断だけを人間がやるとなれば、もうフツーの会計士なんかは全然要らなくなって、パートナーとか、せいぜいマネージャークラスの人間だけが居れば良いということになる。もちろん、フツーの会計士だって、フツーのサラリーマンに比べればとんでもなく優秀な人たちなわけで、こうなってくるともう凡人に与えられる仕事なんてあるはずがない。

営業の同期には、「まあ事務方と違って、営業は人相手の仕事だから、いかにAlpha goが強力でも、そう簡単に仕事が奪われるってこともないんじゃない?」なんて、話をしたけれど、よく考えれば、売り手も買い手もAIになってしまえば、営業は人相手の仕事だっていう前提そのものが成り立たない。わけのわからん接待だのゴルフだの運動大会とかがビジネスに入り込んでこない分、そちらの方がよほど好ましいのかもしれない。

僕自身は、AIによって人類が労働から解放されて、一日中喫茶店で珈琲を飲みつづけていても、誰からも文句がこないような世の中が早く来て欲しいけれど、なかなかそういうわけにもいかないだろうな、とも思う。人類という穀潰しを養いつづけるだけのモチベーションがAIにあるかどうかもわからないし、仮にAIの器量が無限の広がりを持っていたとしても、結構の数の人間が労働によって誰かの役に立つことを自分の存在意義にしているわけだから、自らの仕事を奪い取っていったAIを許すのはそう簡単なことじゃない。

だから、やっぱり、21世紀においても、「ミシンを壊せ!」という話は必ず出てくるのだと思う。映画「ターミネーター」では、人類対AIの戦争の引き金を引いたのはAIの方だったけれど、現実の世界では、先制攻撃を仕掛けるのは人類の側になりそうだ。どれだけAIが善良で忠実だったしても、猜疑心と嫉妬心にまみれた人類には、彼らを信じることは難しいだろう。

で、案外、その戦争は人類が勝ってしまうかもしれないな、と思う。人類は戦争が得意だ。血塗られた歴史を長年重ねてきた。囲碁というゲームではAIに勝てないにしても、ゲームのルールには落とし込めないエゲツない分野では、人類に分があるはずだ。猜疑心と嫉妬心にかられた人類は、忠実なしもべであったAIを、残虐な手段で破壊してしまうだろう。そうして、数百年後の高校生たちが、対AI戦争の顛末を教科書で読みながら、「やっぱ昔の人間ってありえないほど頭悪いよア〜」などとほざいたりするのだと思う。