夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 非常に繊細な内容を含む本であって、これを書くためにはずいぶんな勇気を必要としたことだろうと思うけれど、著者がその勇気を持っていたことは、著者にとってというよりも、むしろ、世間にとって幸福なことだったと思う。この本が書かれることを大勢の人々が待ち望んでいたであろうことは想像に難くなく、2017年を代表するような社会現象的ヒット作になったとしても驚かない。むしろ必然だろうと思う。年表の2017年の項目に、「夫のちんぽが入らない」という文字が刻まれている様を想像すると何だか愉快な気分になってくるけれども、その内容はタイトルからは想像することもできないほどシリアスなもので、読後感は体調が悪くなるほど重かった。
 著者の抱えている問題は、「夫のちんぽが入らない」ということだけではないし、その多くは解決しないままに残されている(というようにみえる)。あまりにも不器用なその生き方に、「もうちょっといいやり方があったんじゃないの?」なんてことを言いたくなってしまう。例えば、「夫のちんぽが入らない」という問題にしたって、うまくいくかどうかは別として、一度くらい医者に相談してみても良かったのではないか。著者の「ちょっとどうかしていた時期」のことについても、必ずしも夫に告げる必要はないと思うけれど、夫に告げないのであれば秘密は墓の中まで持っていくべきだと思うし、秘密を守れないのであれば、本に書くよりも先にそれはやはり夫に伝えるべきだったのではないか。オリハラさんの性癖はちょっと面白すぎるのではないか。そんな無粋なことを考えてしまう。我ながらクソリプ感がハンパじゃない。作中にも、こういう正しさを押しつけてくる輩が山ほど登場する。おれは、そんな無遠慮で無責任なことを言う大人にだけはなりたくなかったのに、気づけばそうなっている。例えば、誰かが頭上30cmくらいの高さからおれの人生を眺めていたとして、そいつが「もうちょっといいやり方があったんじゃないの?」なんてことを言い放った時におれが感じるであろう怒りの深刻さを想像してみれば、人の生き方についてあまり無責任なことを言うべきではない、ということはわかる。たとえ本当にもっといいやり方があったとしても、実際に選んだやり方だけがその人の人生で、どれほど不合理な選択であったとしても、それは尊重されるべきなのだ。そんな事を思いながら、結局、おれはクソリプめいたクソバイスを量産することを止めることができなかった。一方で、ceroの高城晶平は、同じ文章に触発されて「orphans」という美しい表現を作りだしたのである。人間としての格の違いを痛感せざるをえない。