裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち (at叢書)

 本を閉じた時、思い出したのはやはり同級生たちのことだった。かつて、僕はヤンキーがマジョリティを占める学校に通っていた。ひとくちにヤンキーと言っても、いろいろな層がある。単に快活だからヤンキーになった、いわゆる「健康優良不良少年」としての、ヤンキー。彼らはスポーツもできるし、明るく、何をやらせてもよく目立つ。クラスの花形のような存在だ。ただヤンキーでいるのが楽しいからヤンキーをしているだけで、その気になれば、どんな道を歩むこともできるだろう。実際、彼らの多くは「更生」する。というよりも、ただ元気が有り余っていただけで、もともとそれほど悪くもなかったのだ。
 そして、「健康優良」ではない、ただの「不良」としてのヤンキーがいる。彼らの家庭環境は、はっきりと悪い。こどもの眼からもそれは分かる。「この連中に未来はない」シンナーに手を出した同級生の目つきや歯をみて、十四歳の僕はそう感じていた。あれから二十年の時が流れたけれど、彼らの未来がどうなったか、僕は知らない。とくに知りたいとも思わない。

 十四歳の僕が彼らの状況に同情することができなかったことは、自分としては仕方のないことだったと整理している。僕は、全国平均で言えば偏差値50くらいの学力でしかなかったが、あの中学校の中では、相対的に勉強ができる方だった。僕は気の弱い子供だったが、気の弱さは意志の力で克服できる、当時はそう信じていたので、しばしばヤンキーとはトラブルになった。廃屋に呼び出されたこともある。ビビっていかなかったが、何事も起こらなかった。からかわれていただけだったのだろう。まあ、というわけで、彼らは僕にとって現実的な脅威でありこそすれ、同情の対象ではなかった。

 女の子たちの疲れた顔を見ることに、私は次第にうんざりするようになっていた。彼女たちの家の話をひとつひとつ知るたびに、私のなかにある、明るく光るものが壊れていくような気がしていた。
私たちの街は、暴力を孕んでいる。そしてそれは、女の子たちにふりそそぐ。
 中学三年生になる直前、私は地元を離れようと思った。できるだけ遠くに行くこと、煙草やシンナーの匂いから遠く離れること。親が公務員や教員をしている子たちは、地元から遠く離れた進学校に行く。そうやって、移動して、知らないひとたちのなかで新しい生活をつくっていくことはそんなに悪いことではない。疲れ果てた女の子たちの顔を見るのはもうたくさんだ。

 たぶん、僕の地元は著者の地元ほど荒れた地域ではなかったし、僕はそれほど勉強のできる方ではなかったし、何よりもっと自分本位だったけれど、この文章に書かれていることはよくわかる。よくわかる、という気がする。
 故郷を出た僕は、東京でサラリーマンになって、ヤンキーのことなんてすっかり忘れて、「やっぱ子供の環境のためには土地柄の良い地域を選ばないな~」となどと考えながら夜な夜なSUMMOを検索している。
 著者は、捨てたはずの故郷に戻って、大学教授をやりながら、傷ついた少女の支援を行っている。その活動は本当に献身的で、こんなにやることがあったら他の仕事をする時間がなくなってしまうんじゃないかと思ってしまうくらいだ。もっと言えば、自身の人生もすり減らしてしまうのでないかと心配になる。正直、何が著者をそこまでさせるのか、僕にはまったく理解できない。同時に、傷つけられたこどもが、たしかにそこにいるのに、まったくの無関心でいることができる自分の方が、よほどどうかしているのかもしれない、とも思う。
 
 思うに、この社会には、無数の分断線が走っていて、同じ空間にいても、線をまたいだ先にいる人間のことを見ることはできない。それぞれが異なる次元に生きている。最大の分断線は「貧富」と「男女」で、「貧困」な「少女」の現実は、「貧困でない」「男」の僕には、目の前にあるのに、見えない。たとえ見えていても、痛みは伝わらない。
 あれは確か、大学2年の夏休みに帰省した時のことだったと思う。地元のスーパーマーケットで、小学校の頃のクラスメートに再会した。明るく親切な女の子だった彼女に、幼いころの僕は少なからず好感を抱いていたはずだった。でも、僕は、たぶん、彼女の歯が溶けていることに気づいた瞬間に、自分と彼女の世界を切り離してしまった。そして、この本を読むまで、彼女のことを思い出すことはなかった。これらの処理は、極めて自然に、よどみなく行われたために、僕の心が痛むことは一切なかった。透明なアクリルごしに水槽の魚を観察するような、冷えた心を自分の内側に感じる。

 この本に収められた6つのエピソードはどれも掛け値なしに美しい。僕は「記念写真」の章を読んでいる時、思わず泣いてしまったのだが、でもほんとうは、この本を読んで泣く資格は、僕にはないのだと思う。これは僕の想像だけど、この6つのエピソードはかなり慎重に選ばれていて、登場する6人の女性に、僕が共感できないような人物はひとりもいない。
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 ここで紹介されているエピソードのような、悲惨な環境に適応した結果、人格が反社会的な性質を帯びてしまったような人は登場しない。著者の経歴から考えると、本書にはあえて書かなかったことがたくさん残されているのだと思う。たぶん、それは、ひとつには、困難な状況におかれた彼女たちの、ギリギリの希望を語りたかったということもあるだろうし、また、ひとつには、僕のような、他者への共感性を失った人間に、彼女たちの抱える問題をもう一度我が事として考えさせるためでもあるのだろう。そういう配慮に甘えて、沖縄の男が泣くというのは、あまりにも虫がよすぎるように思う。*1
 少女たちに向けられる著者のまなざしはどこまでも優しいけれども、同時に、そこには思わずたじろいでしまうほどの怒りがある。怒りを声高に叫ぶような文体ではないけれど、怒りを隠すこともしていない。こんなに強烈な怒りを抱えている人に、僕は今まであったことがない。恋人を殴る男はもちろん最悪だが、著者の怒りの対象は、きっと彼らだけにとどまらない。
 物事の是非が、男の世界だけで閉じているということ。

その後、龍輝は優歌の兄に謝罪して、「いまはこれだけしか払えない」と五万円を払った。優歌に暴力を振るっていた優歌の兄は、龍輝の高校の先輩だった。要するに龍輝にとって謝罪するべき相手は、妊娠させて放り出して優歌や生まれてくる子どもではなく、優歌の兄でしかなかった。

 役所や医者といった、本来彼女たちを助けるべき立場にある人々が、何もしようとしない、ということ。
 行き場のないこどもたちを、まるでいないもののように扱っている、ということ。
 それらを許している、大多数の人間——まさに自分のような人間に対して、著者は怒っているのだと思う。率直に言えば、その怒りを、僕はどう受け止めていいかわからない。
最近では、僕はもう自分の周辺さえ幸せであれば、世の中がどうなったって構わないと思っている。僕の妻が息子を抱きしめたり、鼻水をとってやったりしているとき、なぐられたり、食事を与えられなかったり、家を追い出されたりするこどもがいる、という現実を、うまくのみこめない時もあるけれど、それもどうでもいいといえばどうでもいい。所詮は他人の話だ。そう思いつつも、ほんとうは、僕のこどもが誰のこどもとして生まれたとしても、何の心配もいらないような社会がいいに決まっている、とも思う。
というか、そもそも、自身の現状を省みて考えるなら、貧困問題は他人事とも言い切れない。さっきは「おれは貧困層とは次元の違う現実を生きている!」みたいな、調子づいた発言をしてしまったわけだけれど、それは意識のありようの話であって、より実際的な話をするなら、我が家の経済的基盤はかなり脆弱なので、例えば僕がちょっと重い病気になって、スパッと死ぬこともできず中途半端に生き残ってしまったとすれば、たぶん我が家は簡単に困窮してしまう。ある程度は保険でカバーできるようにしてはいても、あらゆるケースに対応する防御を整えるのはコストの兼ね合いからしても難しい。
 板子一枚下は地獄。
 僕は地主じゃないんだから、やはり貧困は他人事として片付けてしまっていい問題ではない……。そう思う一方で、それとはまったく正反対のことを考えてしまう自分もいて、*2自分の中ではまったく考えに収拾がついていない。

*1:沖縄の男である僕が言うのもなんだが、沖縄の社会は男に甘すぎる。

*2:著者は、現在の中学校が学力重視の教育方針になっていて問題児童に対してのケアが以前ほどに行われていないことを批判する。中学生のころの僕は、それとは全く反対のことを望んでいた。ヤンキーのことなんかより、教師にはもうちょっとまともな授業をして欲しかった。そこには、生意気盛りの中学生の知的好奇心を満たすようなものは、何もなかった。今にして考えてみれば、教師の時間も当然に有限なので、問題児童のケアをしながら、授業の質も保てというのはまったく無茶な話だ。それでなくとも、クラスの中には突然変異的に高い知能を持った子供もいれば、九九やアルファベットさえもおぼつかない子供もいる。その振り幅の中で、クラスの全員が満足する授業を行うことは、誰にとっても不可能だ。中学時代、僕は授業中ずっと小説を読んで過ごしていた気がする。古文も数学も理科も、現代文的解釈テクニックの応用だけでごまかした。そんな恨みがある。でも、「お家に帰れば、ホカホカお風呂とあったかい布団が待っているような奴は、つべこべ言わず自力で学べばいい」という考え方は、やはり正しいとも思う。