吉野家で祈る人

ひと昔前、インターネットで、牛丼屋で「ごちそうさま」を言うとか言わないとかいう話でひとしきり盛り上がっていたことがあったようだけれども、
togetter.com
おれは吉野家で祈りを捧げる人をみたことがある。
祈るといっても、まったく大仰なものではなくて、食前に一瞬、軽く手を合わせただけ。ごく自然な動作だった。男性は現場帰りとおぼしき作業服姿で、年の頃は四十か五十、とにかく中年であることは間違いない。日に焼けた肌には、深いシワが刻まれていた。

そのささやかな祈りは、まったくの無言の中で行われたことだったし、無粋な単位で語るならば、せいぜい2秒か3秒くらいの間の出来事だったので、彼を見ていたのは、たぶんおれだけだったんじゃないかと思う。もちろん、何がしか神的な存在が彼の祈りを見届けていた、その可能性は否定できないものの、それを考えることはおれの手には余ることだ。少なくとも現世の基準においては、誰がみているわけでもなかった。その時は、別に何とも思わなかった。残業帰りで疲れていたし、自分の豚丼アタマの大盛半熟卵ポテトサラダ(ドレッシングごま)を食すことで忙しかった。そもそも起きていること自体は、わりと普通というか、さして奇妙な振る舞いというわけでもない。でも、なぜか頭の中にはその光景がずっと残っていて、その後、何度となく彼の祈る姿を思い出すことになった。
 
動作にはまったく淀みがなく、流れるような早さで行われているのに、手をあわせる瞬間には、確かに何がしかの感情を感じさせる表情が男性の顔に浮かんでいた。あまり日常生活で用いる単語ではないけれども、まさに「敬虔」という感じだ。彼が何に祈っていたのかはわからない。神様かもしれないし、仏様かもしれない。あるいはGOD、もしくは牛や稲、じゃがいもやごまといった食材たちに対する祈りだったのかもしれない。そもそもそれは祈りですらなくて、ただのルーティーンだったのかもしれない。でも、おれはそれを祈りだと感じた。

何度もその光景を思い出すうちに、吉野家で祈るというその行為について、はっきりと好感を持っている自分に気がついた。これはおれにとってはずいぶん意外なことだった。おれ自身は、信仰心が強いタイプではない。少なくとも自分ではそのつもりだったのだけれども、実際のところは、信仰を持つ人への憧れがあるのかもしれない。普段はほんとうに損得勘定のことしか考えていないので、そういう小市民的な世界を超えたものにアクセスできる人を、少しばかりうらやましく思っているのだろう。吉野家で祈っているということは、たぶん一日三食ぜんぶで祈っているということで、その度にあのような満ち足りた顔をしているとすれば、これはもう実にすばらしい心のありようだと思う。たぶん、おれ自身は死ぬその瞬間まで損得勘定で生きていくのだろうし、それはそれで地べたをはいずる生き物としては正しい態度だと思っているので、所詮は「隣の芝生は青くみえる」ということに過ぎないのかもしれないけれども。