津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

- 作者: リチャードロイドパリー,Richard Lloyd Parry,濱野大道
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2018/01/24
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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津波がおしよせたあの日から、時が経つに連れ、被災者の中にもいくつかの線が引かれていく。誰ひとり家族を亡くさなかった人。連れ合いを亡くした人。こどもをひとり亡くした人。すべてを亡くしてしまった人。家族を亡くしたものの、遺体をみつけることができた人。それすらもかなわなかった人。はじめのうちは同じ不幸のなかにいても、次第にそれぞれの状況の違いがみえてきてしまう。自分のこどもを亡くした親にとって、生き残ったこどもの顔をみるのは辛いことだ。「どうして自分のこどもだけが?」という問いに憑りつかれてしまう。その問いに答えられるものはいない。子供の遺体がみつからない親は、あてもなく土を掘り返すしかない。何年も、何年も、月日が流れるとともに子供を発見する望みが薄らいでいっても、それを探すことを止めない人もいる。
この辺りの感覚は、僕にはよくわからない。たとえわずかでも、生存の希望が持てるのであれば、何をおいてでも探してやりたいと思う。その気持ちはよくわかる。しかし、もう、どのように考えても望みが持てないのであれば、僕は家族の亡骸を見つけたいとは思わない。海や土の中に溶け込んで、海や土になったのだと思いたい。もっとも、これは今、安全圏にいるからそう思うのであって、それがほんとうに我が身に降りかかってきたときに、自分が何に執着するかなんて、実際のところはまるでわからない。
こどもを亡くした親たちが、学校や教師を責める気持ちはよくわかる。近隣の学校では、1名を除きほとんどのこどもが助かっているのに、自分のこどもが通う学校だけが、ほとんどのこどもを助けられなかったのだから、いったい何をやっているのかという気持ちになっても無理のないことだと思う。僕も同じ立場に置かれたとしたならば、教師たちを許すことはないだろう。
親たちに感情移入する一方で、教師たちにも同情してしまう自分がいる。とりわけ、彼らの中でたったひとり生き残った教師については、僕は責める言葉を持たない。自分が教師としてその学校にいたとしても、彼以上のことができたかどうか自信が持てないからだ。この本の記述を信じるならば、彼はそれなりに津波の危険性を認識していて、それを周囲に訴えてもいた。こどもたちに「山に逃げろ」と叫んだのも彼だったし、同僚たちにも裏山に避難することを提案していた。しかし、結局は、周囲を動かすことができず、最悪の結果に至ってしまう。教師たちは、学校に避難していた地元の住民たちから、裏山へ避難することに強い抵抗を受けたのだという。おそらく、彼らは、地元の住民たちを説得するだけの確信を持てなかったのだろう。普通に考えれば、地元民の方が、土地に対するより深い知識を持っているはずで、彼らの意見に従うということも、それほど愚かな判断とはいえないように思う。少なくとも、自分なら絶対に裏山に登るという判断を下すだろう、とは思えない。
実際、あの日、東京で、僕が何をしていたかというと、会社の前の小さな広場で、総務部長の指示に従って、手持無沙汰にぼさっと待機していた。本音をいうと、僕はそこに留まっていたいとは思わなかった。もし、また、強い地震があって、ビルの窓ガラスが砕けることがあれば、真下にいる我々は串刺しになってしまうような気がしたからだ。それに、僕の会社からは海が近い。津波のことを考えれば、オフィスのある高層階に留まっていた方が安全なような気もした。しかし、今になって考えてみれば、オフィスに留まっていたとしたら、それはそれで火災に巻き込まれるを高めていたかもしれない。どちらがより正しい判断だったかは今もってわからない。とにかく、僕はその時、自分の判断を信じず、総務部に言われるがままに動いていた。もし、あの日の震源が、東北ではなく、東京直下で、僕が教師だったとしても、こどもを助けることはできなかっただろう。
そう考えると、僕には、彼がたまたま、運命によって選ばれ、その役割を引き受けてしまったということのように思える。たしかに、彼がもう少しだけ自分の判断を信じることができたなら、74人のこどもたちは死なずにすんだのかもしれないが、突然にそれほどまでに重い責任を担わされてしまう、そのこと自体に、僕は同情してしまう。こどもを亡くした親も、こどもを守れなかった教師も、誰もが選んだわけでもないのに、人間の限界を超えるような過酷な運命を担わされてしまった。こんなとき、人間には何ができるだろう? 結局、運命を受け入れるということしかできないのではないか。
著者はこうした考え方に批判的だ。
おそらく人間の域を超越したあるレベルでは、大川小学校の児童の死は、宇宙の本質に新たな洞察をもたらすものなのだろう。ところが、そのレベルよりもずっとまえの地点―生物が呼吸し、生活する世界では―児童たちの死はほかの何かを象徴するものでもあった。人間や組織の失敗、臆病な心、油断、優柔不断を表すものだった。宇宙についての真理を認識し、そのなかに人間のための小さな場所を見いだす
のは重要なことにちがいない。しかし問題は、この国を長いあいだ抑圧してきた”静寂主義の崇拝”に屈することなく、それをどう成し遂げるかということだった。
ご説ごもっとも、という感じだ。思考をむやみに高めすぎず、人間の世界にとどめおくことは、非常に重要なことだ。社会を変えるには、そうでなければならないだろう。
「一億総忖度社会」の日本を覆う「気配」とは何か? 自ら縛られていく私たち
この記事にも通じる話だと思う。社会に対する怒りをキープし、諦観に支配されることなく己の主張や要求を粘り強く主張しつづける。著者が共感するのは、そうした人々だ。僕もたしかにそれが人間として正しい態度だと思う。ただ、まさしく、臆病な心、油断、優柔不断によって、とりかえしのつかない過ちをおかしててしまった人、かけがえのないものを失ってしまった人たちの、究極的な自己弁護としての「運命」は、それに他人が耳を傾ける必要があるかどうかはともかくとして、個人の心の領域にはやはり必要なのではないかと思う。甘すぎる考えかもしれないけれど……。